編集長コラム「金曜日から」 編集長のコラムを公開しています。

秋葉原で「第4回国民的萌えクィーンコンテスト」というものが開かれた

編集長後記

 先日、東京・秋葉原で「第4回国民的萌えクィーンコンテスト」というものが開かれ、アキバのカフェなどで働く女子がパフォーマンスを競った。私は審査委員長である高須基仁氏に依頼されてなぜか審査員をやった(一言感想を述べただけでしたが)。

 当日は14人の店員たちがパフォーマンスをしたが、笑顔を絶やさず話し続ける、そのしゃべりと図太さには感心した。さすが決勝に残ってきた強者どもだ。普段から「永遠の一六歳」とか、「なんとか星から来た」とか強固な「設定」の下、役割を演じているからなのか。会場は満席で熱気もあったが人が集まるには理由があるだろう。

 この世界を見ていて似ていると思ったのが、新宿二丁目だ。客と店員が自分の趣味嗜好でそこでは本音を出せる、ちょっとうしろめたい聖地という意味で、である。アベやアソーはアキバで人気者である振りをしてメディアもそう伝えている。しかし本来、あのような弱い者に冷たく差別的な「キャラ」を彼ら彼女らが支持するはずもない、そう感じた次第です。 (平井康嗣)

寒さがピークを迎える中、首都圏の猛暑を思い出した。

編集長後記

 寒さがピークを迎える中、首都圏の猛暑を思い出した。2月15日、埼玉県所沢市で小中学校へのエアコン設置の是非をめぐる住民投票があった。航空自衛隊入間基地の騒音対策のため学校は窓を閉めていたいからだ。海のない埼玉は暑い。結果は賛成多数となったが、市長に設置再検討を求め得る投票数には満たなかった。
 設置反対の藤本正人市長は自民党推薦で当選した人物だが、一昨年、反原発運動の最前線にいる野党女性議員の会合でお会いし、立ち話をしたことがある。財政問題も反対の理由としてあるが、藤本氏は福島第一原発事故を経験し、電気利用や便利な生活に疑問を持ったという趣旨の話をしていた。エアコン設置反対がきわめて不人気の政策判断であることも重々承知していた。

 しかし民意は便利で快適な生活を欲する。政治家は票になるからとびつき、マスコミも民意に迎合する。今回、住民投票について原発事故や基地について避けるように報じていたマスコミを見、3・11の通念が風化しつつあることも感じた。 (平井康嗣)

編集長後記

 この国ではかつて宗教者が迫害された過去はあるが、現代では「イスラム国」に対する怒りがイスラム教へと飛び火することを懸念されている。

「シャルリー」以降、イスラムと表現の自由があたかも対立するかのように描かれがちだが、近代の自由主義という概念は16世紀の宗教戦争への反動で生まれた。「長期にわたってヨーロッパを混乱に陥れた宗教的狂信主義に対する嫌悪を動機として、自由主義が提唱された」(『生きるための経済学』)と安冨歩はマイケル・ポラニーの考えを紹介する。自由主義は誰にでも自分の信念を表明させる反権威主義と、自分の考えを押し付けるほど真理に確信が持てないという哲学的懐疑の二重構造を持っているという。それゆえ宗教を選択する自由、寛容が生まれた。

 しかしニヒリストのように思考の自由が行き過ぎると、自分で信じるものも疑い、倫理を軽蔑し、倫理と暴力を同価値にひきずり下ろす行動に出る。これはソクラテスを誤読した模倣者たちと同じだ。日本でも誤読する者が増えている。 (平井康嗣)

「私はシャルリ」「私はケンジ」などのカードを掲げている人たちの姿をここのところ目にした

編集長後記

「私はシャルリ」「私はケンジ」(原文は仏語、英語)などのカードを掲げている人たちの姿をここのところ目にした。真意はそれぞれあるだろうが、被害者側に同化し、被害者に寄りそうということなのだろうか。本当にわかりえているならばすごいことだ。

 2年前の2013年2月22日号は廣瀬純責任編集「希望にすがるな 絶望せよ」だった。特集では『チッソは私であった』という著作のある水俣の漁師・緒方正人と廣瀬が対談した。緒方は〈運動をやってきて、加害性と被害性が二項対立ではなく、だれもが両方持ち合わさざるを得ない。長い間問う側にいたのが、自らが問われていることに気がついた。自分の中で「どんでん返し」が起きたんですね。しかも、どんでん返しが起きると、チッソの人たちが非常に愛おしくなるんですよ〉と話す。さらに〈本当は「私は」という言葉も使いたくなくて、「一人」という言葉の方が好きです〉とも語った。あらためて私は本当に「私」が何かとわかっているのかと考える。
(平井康嗣)