編集長コラム「金曜日から」 編集長のコラムを公開しています。

異常が異常でなくなったこの国は、「夏」から逃れられない

 不意打ちのように、月が冴え冴えとする季節が訪れた。喧噪と熱気の夏は息苦しくて苦手である。本来は孤高の月すら、変に茫洋とした闇の中で、名も知れない星たちに媚びを売っているかのごとくに見える。凛とした姿が帰ってくると、心底ほっとする。
 
 とはいえ、都心では、まだまだ暑さが続く。異常気象はもはや、異常ではなくなった。秋の真夏日にも驚かない。異常を異常と思わない。実はこれが一番、異常なのだろう。
 
 それでも季節はめぐる。異常気象の遠因が人類の「欲望」にあることを知りつつ、月は黙して秋を告げる。これは偉大な自然だからこそ可能なことだ。翻って、人間社会にはそこまでの「力」はない。いったん異常な社会が生まれ、それが異常ですらなくなったとき、正常な社会はかけらすら残らない。熱病に浮かされた「夏」は終わることなく、それに慣らされた人間は、あるべき冷静さを失い、破滅に向かって突き走る。

 夏は、祭りの季節でもある。祭りには“非日常”がともなう。祭りの中に自己を溶解させ(させられ)、忘我の境に飛翔するには「暑さ」が欠かせないからだ。
 
 夏は、へたをすると歪んだ連帯感に陥りやすい季節でもある。もうろうとした中で、汗だくになりながら、太鼓の音にあわせ、一つの方向に進軍させられる。そのさまを、つい思い描く。だから、秋になるとほっとするのである。

 戦争は祭りに通じる。非日常の興奮のもと、人間が人間でなくなる。いま、憲法改悪、非核三原則見直し、有事法制……一年中、太鼓の音が響きわたり、社会は「夏」のままという異常事態が、日常になりつつある。知らず知らず、人はそれに慣らされ、人間性を失う。この国はすでに、戦時に入っているのだ。破滅に向かって暴走し始めているのかもしれない。ほっとしている余裕などないのだろう。

 悲観論は自分でもあきあきした。だが楽観論を唱えるには、世界がまだ暑すぎる。 (北村肇)

有事法制の指定公共機関に入ったテレビ局。いつから権力の広報機関になりさがったのか、ジャーナリズムの矜持は失ったのか。

 本末転倒なことが当たり前になるという、それこそ本末転倒な事態がときに生じる。 たとえば、憲法は、国家権力が市民の権利を侵害することのないよう、公務員らに縛りをかけたものだ。それがいつの間にか、市民が守るべき法であるかのようにすりかえられている。だから平気で政府は憲法を踏みにじる。

 有事法制の一環として、指定公共機関が決められた。ここでも本末転倒なことが起きている。権力の監視・批判を役割とするマスコミが、権力の広報機関になりさがり、しかも大して問題にもならなかったのだ。
 
 指定公共機関には、NHKを始め民放各社が含まれている。特に拒否する社もなかったと聞き、呆然とする。いつからジャーナリズムの矜持、というより当然の責務を見失ったのか。

「有事」の際、国家が間違った判断をしても、ただただその指示に従って「報道」するのか。一切の批判はしないつもりなのか。台風や地震とは違うのだ。国の出す情報をそのまま流してこと足りるなら、国が放送局をつくればすむことだ。

 NHKは「有事に際しても、自らの編集判断で、迅速・的確な報道を行なう基本方針になんら変わりがない」とのコメントを出した。こんな戯言をだれがまともに受け止めるものか。そもそも「自らの編集判断」があれば、指定公共機関になる必要がない。国の指示などなくても、きちんとした報道ができるはずだ。
 
 もっとも、国に従ったのは「企業」であり個々の記者ではない。ならば、記者は自社を追及すべきだ。組合も立ち上がるべきだ。権力にすり寄った経営者を追放すべきだ。そういう思いすら持たない記者は別の職業につくべきだ。表現が苛烈すぎるかもしれない。だが、いまこそメディアにとっての「有事」なのだ。(北村肇)

「9・11」の“陰謀”から3年。米国がイラクで泥沼に陥るのは「因果応報」である

 風が吹けば、砂ぼこりが舞う。ほこりが目に入り、目を痛める人が増える。目をわずらった人は楽しみに三味線を弾くようになるので、三味線に使うネコの皮が必要になる。ネコが減りネズミが増える。ネズミは桶をかじるため、桶屋がもうかる。
 
 初めて寄席で聞いたとき、いたく感心した。こども心に、「因果関係」の面白さ、奥の深さを感じ取りもした。

「9・11」があったから、イラクを侵略した。さてこの間に、どんな接ぎ穂があるのか。「9・11」はアルカイダの犯行。アルカイダはフセインと関係が深い。フセインは大量破壊兵器をもっている。フセインをたたけばテロを防げる。米国の解説はこんなところか。では、これを逆さにみると、どうなる。
 
 イラクを支配下におき、石油利権を手にするにはフセインが邪魔。フセインを倒すには大義名分が必要。それにはアルカイダと結びつけるのが一番。そのための「事件」さえあれば…。
 
「9・11」から3年、多くの事実や真実が明らかになりつつある。少なくとも、「アルカイダとフセインとの親密な関係」がデマゴギーであったことは、確かなようだ。イラク侵略の狙いの一つが石油利権の確保だったのも、ほぼ間違いない。これらを含め、本誌今週号で、ブッシュの思惑がどこにあったのか詳細な特集を展開しているので、読んでいただきたい。

 真珠湾攻撃を米国は事前に知っていた、という説が多くの研究者によって発表されている。ベトナム戦争勃発のきっかけとなったトンキン湾事件が「捏造」だったことも、歴史が証明しつつある。

 そこで、もう一度、繰り返してみよう。イラクを支配下におき、石油利権を手にするにはフセインが邪魔。フセインを倒すには大義名分が必要。それにはアルカイダと結びつけるのが一番。そのための「事件」さえあれば…。

 これを因果関係とは言わない。必然と偶然の交差点にある「運命」でもない。ずばり「陰謀」だ。そして米国がイラクで泥沼に陥る。こちらは「因果応報」である。(北村肇)

沖縄の怒りを、できる限り共有したい。怒りは伝播する。大地を揺すりながら、大きな連帯のうねりとなる。

 沖縄の海に触れたことがない。十回くらい足を運んだが、ほとんどの時間を基地巡りに費やした。労働組合の集会参加が大半なので、当然と言えば当然である。とはいえ、まったく時間がなかったわけでもない。そうした気分になれなかっただけだ。
 
 そのくせ東京に戻ると、米軍基地がガン細胞のように浸食する異様な光景も、しだいに記憶から薄れることを告白しなければならない。
 
 恐らくは、そうしたことに耐えきれず、沖縄に居を移した人々もいる。だが私にはそこまでの決断はできない。であるなら、せめて可能な限り、怒りを共有することから始めたい。

 住宅地にある大学構内に軍用機を墜落させながら、いまだに反省どころか、原因すらも明らかにしようとしない米軍。主権をあからさまに侵されているのに、満足に文句もつけられない政府。まったく当事者意識が感じられない小泉首相。許せない。許しておくべきではない。

 先の戦争で地上戦に巻き込まれ、多くの住民が命を落とした沖縄。戦後も天皇制維持の“取引材料”にされ、米軍基地としていいように使われてきた沖縄。米軍のたびかさなる事件と事故にさいなまれてきた沖縄。

 1995年、3人の米兵による少女暴行事件をきっかけに、基地の縮小・撤去、日米地位協定の見直しを求める運動が全国的に盛り上がった。こうした動きに押される形で、日米両政府はついに、普天間基地返還に合意。だが米国は「民衆の要求に譲歩すると見せかけて、高度な軍事機能を持つ新しい基地を手に入れようとした」(新崎盛暉・沖縄大学教授)。またしても、沖縄は国家的な詐欺被害にあったのだ。

 このような地に暮らす人たちと、同質の怒りを持つことはできない。それでもいいと思う。
 
 怒りは伝播する。大地を揺すりながら、大きな連帯のうねりとなる。私たちがすべきは、いや私がすべきは、まず自らの内に自らの、とめどない怒りを呼び覚ますことだ。(北村肇)