<北村肇の「多角多面」(63)>
いまさら悔やんでも仕方ないけどォォ――って、まるで演歌だが、一時(いっとき)でも騙された自分が情けないやら悔しいやら。こんな思いの人がたくさんいるはずだ。民主党政権が誕生したときは、「自民に非ず」の政党が国会の中心に立ったということで、多少なりとも心が躍った。しかし、その期待はしだいにどころか急速にしぼむ。通常国会が始まった1月24日、野田首相の施政方針を聞くにいたり、民主党と自民党との違いは「看板」だけという冷厳な事実はいよいよ隠しようもなく、ただただ悄然。2009年の「政変」は、野党勝利ではなく単なる与党内の派閥抗争だったと認めるしかない。
永田町はもちろん、新聞・テレビも何かといえば「ねじれ」を持ち出す。だが、両党に違いがないのに、どこが「ねじれ」なのか。
① 消費税増税
② 沖縄辺野古基地建設
③ TPP推進
④ 富裕層・大企業優先の税制
⑤ 憲法9条改定
⑥ 米国べったりの外交
国の基本にかかわる上記の政策で、果たして民主党主流派と自民党主流派に対立はあるのか。実はまったくない。谷垣自民党総裁は支持者から「態度があやふや」と批判されているが当然だ。本来、野田政権がやろうとしていることには賛成なのに、「政局」を考慮して表面的に反対の旗を掲げていては、あやふやにしかなりようがない。
そもそも、「ねじれ」が生じている場は民自の間ではなく、民主党の中であり自民党の中だ。消費税にしてもTPPにしても、党内はどちらもバラバラ。ここを解消しなければ、国会はどこまでいっても空転するだけだ。この際、一刻も早く衆議院は解散すべきである。ただしそれは政界再編を伴わなくては意味がない。「対米自立、富の公平な再分配、脱原発」対「対米従属、富裕層・大企業優遇、原発温存」の構図だ。
言わずもがなだが、後者は霞ヶ関が推し進める政策そのものである。このままでは、騙しのテクニックには無類に長けている霞ヶ関官僚は、「ねじれ」を最大限に利用し続けるだろう。永田町が政局でもめている限り、民主党も自民党も官僚のシナリオに頼るしかないからだ。むろん、石原新党に“反官僚”は期待できない。(2012/2/3)
<北村肇の「多角多面」(62)>
本誌合併号(2011年12月23日、12年1月6日号)で、中島岳志編集委員は「大阪W選挙での大阪維新の会の勝利は、二つの社会的心性に依拠している」としたうえで、次のように分析している。
「一つ目は『リア充』批判。『リア充』とは『リアルな生活が充実している』ことを意味するインターネット用語で、ネット上の掲示板には、現実生活に不満を持つ人間による『リア充批判』が溢れかえっている。このリア充批判は、丸山眞男のいう『引き下げデモクラシー』と通じる。自分たちより恵まれた立場の人たちを引きずり下ろすことに溜飲を下げ、その実現に執着心を強めるあり方は、まさに橋下氏の提示する政策と合致する」
雨宮処凛さんや湯浅誠さんが進めてきたプレカリアート運動は、「貧困・格差」は構造的な問題だと鋭く指摘した。新自由主義は必然的に「1%」が「99%」を支配する構造をつくる。だから、既成の労働組合を既得権者として批判するだけではだめで、政策を変えさせなくては根本的な解決にはならない。ここ数年、こうした主張はかなり広がった。だが一方で「引き下げデモクラシー」の傾向もますます顕著になっているのだ。
なぜなのか。あえて言えば、“知的エリート”が放つ言葉に力がないということだ。丸山眞男の「『文明論之概略』を読む」(岩波新書 1986年)はいつ読んだのかさえ忘れてしまったが、彼の造語である「引き下げデモクラシー」には、向上心をもたない庶民への慨嘆が含まれていたような記憶がある。そこに「大衆の上に立った」姿勢を見て違和感があった。知的エリートの考える「向上」とは、つまるところ「知的向上」であろう。大衆はその努力をしていない、だから「真の敵」が見えないという解釈では、エリートにとっては虚無的な世界である「衆愚社会」に行き着くしかない。
反省すべきは、大衆ではなくエリートの側ではないのか。民衆の「頭」ではなく「心」を揺さぶる言葉をもちえなかったことを自省すべきではないのか。かつて竹中労は、『資本論』より美空ひばりの歌が大衆を動かす現実を論理的かつ情緒的に描いた。しかし、彼の作品もまた、ひばりの歌ほどには大衆を動かすことはなかった。この皮肉をいかに乗り越えればいいのか。私も含め、少なくとも活字で意思表明する場をもつすべての人間は、大衆批判をした途端に、それこそが「引き下げデモクラシー」になってしまうことを認識すべきだ。知的エリートの心の奥底には、「何も考えずに生きていられる<ように見える>」大衆に対する嫉妬心がある。その歪んだ心性から脱却しない限り、大衆と手を携え「真の敵」を倒すことはできない。(2012/1/27)
<北村肇の「多角多面」(61)>
「地震、雷、火事、親父」が怖いものの代名詞だった時代は、どこまで遡るのだろう。1952年生まれの私が小学生のころは、すでにピンとこなかった。「親父」に叱られた記憶はまったくない。養父だったからか。でも、友人から聞かされる愚痴はもっぱら「うるさい母親」だった。「怖い親父」は当時、すでに絶滅危惧種になりかけていたのだ。
戦前の父権主義は天皇制や軍国主義と不可分の関係があるとして、戦後は「ものわかりのいい父親像」が求められた。そのこと自体は間違っていない。たとえ親子でも、理不尽な叱責や体罰が許されていいはずはない。子どもは親の所有物でも奴隷でもない。基本はあくまでも「対等」である。もちろん、長幼の序を軽視する気はない。自分より体験の豊富な人を尊敬するのは当然だ。しかし、年上だから、親だからといって、目下の人格を無視した“押しつけ”はだめなのだ。
2012年、鍵を握る人物の一人は橋下徹大阪市長だ。以前、この欄でも触れたが、橋下氏の人気は「既得権者をたたく」姿勢によるものだけではない。彼の持つ“父性”に秘密がある。「黙って俺についてこい」という雰囲気が票を集めるのだ。小泉純一郎元首相にもそうした面はあった。だが、実際の生活も含めて“父性”は希薄だった。むしろ、石原慎太郎東京都知事に似ている。信じられない暴言の数々がなぜか大問題化せずにきたのも、「お父さんの言うことだから仕方ない」という“赦し”があったからだろう。
閉塞した社会で鬱屈した現代人が「父親についていけば安心」という感覚に憧れるのは理解できる。公務員たたきの橋下氏の姿に「いじめっ子をやっつけてくれるお父さん」という像を結んだとしても、単純な批判はできない。彼ら、彼女らもまた虐げられてきた“子どもたち”なのだ。だからこそ、いまの状況は極めて危険で不安である。
抑圧者は、おうおうにして解放者の顔をして登場する。あなたを抑圧する敵を倒してあげよう。その声は力強く、甘いささやきでもある。実態は判然としないが何となく社会から抑圧されていると感じる人は、無条件に“父親”に従うことで解放されると信じる。むろん、それは幻想にすぎない。真の解放は「個の自立」から生まれる。そして、それを担保するためには「差別無き社会」「思想、良心の自由」が前提となる。橋下氏が救世主になることはありえない。
野田政権の命運は尽きている。その後釜に「解放者の顔をした抑圧者」が座る事態を防ぐにはどうしたらいいのか。日本社会は正念場を迎えている。(2012/1/20)
『週刊金曜日』2012年2月24日号掲載の俳句を募集しています。
【兼題】「田楽(芸能ではなく、食べ物のほうです)」「東風(こち)」(雑詠は募集しません)
【締切】 2012年1月31日(火)必着
【投句数】1人計10句まで何句でも可
※特選に選ばれた句の作者には櫂未知子さんの著書(共著を含む)をお贈りします。
【投句方法】官製はがきか電子メール
(氏名、俳号、電話番号を明記)
【投句先】(事務所が移転しています)
郵送は〒101-0051 東京都千代田区神田神保町2-23
アセンド神保町3階 『週刊金曜日』金曜俳句係宛。
電子メールはhenshubu@kinyobi.co.jp
(タイトルに「金曜俳句投句」を明記してください)
【その他】新仮名づかいでも旧仮名づかいでも結構ですが、一句のなかで混在させないでください。
なお、添削して掲載する場合があります。
「櫂未知子の金曜俳句」投句一覧です
選句結果と選評は『週刊金曜日』1月27日号に掲載します。
どうぞ、選句をお楽しみ下さり、櫂さんの選と比べてみてください。
『週刊金曜日』の購入方法はこちらです
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予約もできます。「週刊金曜日」で検索してください。配送料は無料です。
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<北村肇の「多角多面」(60)>
ひっそり、人知れずという感じだった。2011年の去り方も、2012年の到来も。街中に、新年の華やいだ雰囲気はない。そうした傾向は、ここ数年ずっとあったが、今年は特に顕著だ。繁華街のイルミネーションなどは、かえって痛々しくさえみえる。
無理をするのはやめよう。浮かれた気分にならないのなら、表面的に取り繕う必要はない。そもそも、12月31日と1月1日は単に一日進んだだけで、その間に大胆な変化が起こるわけではない。多くの人が何日間かの休暇を楽しんだ、その程度の話しだ。だがしかし、「新年」には利用できる面もある。一度、立ち止まって、現状を分析し将来を展望する機会にはもってこいである。
そこで、自分なりに2012年の「鍵となる言葉」を考えてみた。まずは「抑圧か解放か」だ。すでに、「アラブの春」はいくつかの国で独裁者からの解放を勝ち取った。だが、一方で、シリアでは依然として市民の虐殺が続いているし、中国政府の言論抑圧姿勢にも変化は見られない。インターネットを駆使した、新しい市民革命がどこまで広がるのか、逆に「国家」の管理体制が強まるのか。その推移によって世界は大きく変わる。
さらに重要なのは、金融資本、「カネ」からの解放だ。金融資本の暴虐こそが新自由主義の本性なのは明らかであり、リーマンショックや欧州の経済危機は、もはや国家には彼らを制御することができないという実態を露呈した。市場にすべてを委ねた結果、金融資本という怪物は、国家の管理を寄せ付けない存在になったのだ。この怪物をどう退治するのか、そのことが人類そのものに問われていると言っても過言ではない。
そして、この背景には、現代人がカネの抑圧から逃れられないという現実がある。私自身、カネから解放されていない。解放できる自信もない。社会全体の構造がカネによってつくられている中で、“仙人”になるのは並大抵のことではない。
だが、政治により抑圧を減らすことはできる。有効な方策は、平準化だ。大企業や富裕層から税金を取り立て、貧困層に回す政策の実行である。いろいろと議論はあるが、ベーシックインカムの導入もいまこそ検討すべきだ。どんな状況に陥っても、餓死することなく、雨露を防ぐ生活のできる社会ができあがれば、抑圧感はかなり軽減されるだろう。
私たちひとり一人の心と覚悟の問題もある。幸せはカネでは買えないと、もう一度、しっかり認識したい。精神の解放はそこから始まるはずだ。(2012/1/13)
<北村肇の「多角多面」(59)>
色づいた銀杏のグラデーションが楽しい。突き抜けた青に空が染まる。ニットの服を着たダックスフンドが尻尾を振る。そうか、冬なのだ。道行く人の息がせわしい。車があたふたと走り抜ける。そうか、師走なのだ。
気がついたら1年が終わっていた。「3.11」以降、これまでとは異なる時間が社会を覆ったかのようだ。私の時空間もどこか歪んだ気がする。単純に猛スピードで進んだわけではない。かといって牛の歩みということでもない。早かったり遅かったり、ときには停止したり。ぐるっと一回転したり。このメリーゴーランドはしかし、何の喜びも楽しみも与えてはくれない。私には。おそらく社会全体にも。
東日本大震災はまだ終わっていない。終わることはない。行方不明の方がまだ約3500人もいるのだ。探し求めている家族らはその何倍にもなる。時が解決するなどと、言えるはずもない。傷跡が癒えるには、想像を超える時間がかかるだろう。
福島原発事故もまた、収束の見通しはまったく立っていない。放射線の内部被曝による被害が顕在化するのは2、3年後だ。一体、どのくらいの人が健康を損なうのか、見当もつかない。精神的なダメージを負った人は無数と言っていいだろう。
こうした状況下で、政府のお気楽な発表を聞くたびに寒気がする。まるで直線的に解決へ向かっているようなことを平然とのたまう。ありえない。どんなに楽天的に見積もってもジグザグした道であり、最悪の場合は避けようのない危機的状況だって考えられる。
2011年末、この国の為政者はこう宣言するだろう。「今年はいろいろと大変なことがありました。でも新しい年には輝かしい未来が待っています」。決してだまされまい。ここまで棄民政策を続けてきた政府を、だれが信じるというのか。
しかし、あきらめは何も生まない。世界は根底から変わりつつある。「1%」に対する「99%」の怒りは地球のあちらこちらで火を噴いている。「革命」は、突然、生じたわけではない。何年、いや何十年にわたって、平和や愛を求めた名も無き人々が戦い、その「思い」が種としてこぼれ落ちた。それがいま、芽を出しているのだ。私たちはじっと目をこらし、先人の「思い」を見つけ、掬い取らなければならない。そして、花を咲かさなければならない。タイム誌の選んだ「今年の人」は「抗議する者」だった。2012年は、「抗議の年」「行動の年」にしたい。(2011/12/20)
『週刊金曜日』12月16日号メディア欄(58ページ)に掲載した記事執筆のために朝日新聞社に取材しました。紙幅の関係上、朝日新聞社の回答すべては掲載できないので、(電話番号などの連絡先や日時をのぞく)質問と回答の全文を公開します。
質問は、田中聡・沖縄防衛局長(当時)がオフレコ懇談で、米軍普天間飛行場の県内移設に向けた手続きを性的暴行に例えた発言をしたときに、『朝日新聞』記者が同席していたかどうかについてたずねる内容です。
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●『週刊金曜日』の質問
田中聡防衛局長(当時)の発言報道についてのご質問
前略 貴紙の報道に矛盾しているように見える点がありますので、ファクスにて質問状をお送りいたします。ご多忙中恐縮ですが、文書でご回答いただけますようお願いいたします。 不一
記
谷津憲郎朝日新聞那覇総局長が12月3日朝刊に掲載したコラムで以下のように書いています。
〈あの夜、1時間ほど遅れて居酒屋につくと、目当ての人は奥のテーブルでにぎやかにグラスを交わしていた。田中聡・沖縄防衛局長(当時)と、それを囲む報道各社。男ばかりが約10人。3千円の会費を払い、私は隣のテーブルで報道室長と話し始めた。(略)なんとも間抜けだが、私は例の発言を聞いていない〉
ただ、田中局長発言を伝える貴紙の第一報では、〈朝日新聞社は、発言時には同席していなかった〉と書いています。
一方、『琉球新報』12月8日付13面は、発言は〈1時間半ほどたった午後9時半ごろ出た〉、遅れて参加した琉球新報記者が大きな声で質問したところ、〈局長は大きな声で「これから犯す前に犯しますよと言いますか」と返答した。記者の記憶は鮮明で揺るがない〉と報じています。
お聞きしたいのは下記の点です。
1)第一報では谷津総局長は、発言時に同席していなかったように読めます。午後9時半ごろ、谷津総局長は懇談会場にいたのでしょうか?いなかったのでしょうか?
2)午後9時半頃、谷津総局長が会場にいたとすれば、田中局長の大きな声をなぜ聞いていないのでしょうか?
/////////////////
質問のファクスは、谷津憲郎那覇総局長と朝日新聞東京本社広報部に送ったところ、広報部から回答がありました。
●朝日新聞社広報部の回答
冠省
昨日いただいたご質問の「1」と「2」についてまとめてお答えします。
弊社の谷津憲郎・那覇総局長は、田中聡・沖縄防衛局長(当時)の発言があった時間帯には懇談会場にいましたが、問題になった田中氏の発言は聞いていませんでした。
11月29日付夕刊に掲載した一報の段階では、この発言について総局長の記憶になかったことから、「朝日新聞社は、発言時には同席していなかった」と記しました。
その後の取材で、発言があったのは総局長が懇談会場にいた時間帯だったことが分かりました。12月3日付朝刊の「記者有論」では、総局長が「1時間ほど遅れて」懇談会場の居酒屋についたことや、「例の発言を聞いていない」ことを、お伝えしました。当時、総局長は田中氏の席と離れた隣のテーブルで沖縄防衛局の報道室長と話していたため、問題の発言を聞けていませんでした。
回答は以上です。よろしくお願いいたします。
草々
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これだけでは、問題のありかがわかりにくいかもしれません。本誌記事と併せてお読みいただけると幸いです。
『週刊金曜日』2012年1月27日号掲載の俳句を募集しています。
【兼題】「初電話」「福寿草」(雑詠は募集しません)
【締切】 2012年1月4日(水)必着=仕事始めまで〆切りを延長します
【投句数】1人計10句まで何句でも可
※特選に選ばれた句の作者には櫂未知子さんの著書(共著を含む)をお贈りします。
【投句方法】官製はがきか電子メール
(氏名、俳号、電話番号を明記)
【投句先】
郵送は〒101-0061 東京都千代田区三崎町3-1-5
神田三崎町ビル6階 『週刊金曜日』金曜俳句係宛。
電子メールはhenshubu@kinyobi.co.jp
(タイトルに「金曜俳句投句」を明記してください)
【その他】新仮名づかいでも旧仮名づかいでも結構ですが、一句のなかで混在させないでください。
なお、添削して掲載する場合があります。