編集長コラム「金曜日から」 編集長のコラムを公開しています。

環境問題の中心は「自然と人間の関わり合いをどうするか」にある

 大地をどんと踏んでみる。振動は、どんなに微細であっても地球上すべてに届くはずだ。つながっているのである。陸も海も、さらには宇宙も。この事実を人間は忘れがちだ。だから平然と、木を切り倒し、川や海を埋め、地面を掘り崩す。それが何をもたらすか考えもせず、自然への敬虔な姿勢を失い――。

 しかし、さすがに21世紀に入り、「地球環境」という言葉がそこかしこで聞かれるようになった。グローバリゼーションの時代、どこかの国がくしゃみをすれば世界中が風邪を引く。その危機感から目を背けることができなくなったのだ。中でも温暖化問題は、あたかも人類最大のテーマであるように扱われる。本誌でも再三、取り上げたが、世界各地で尋常ならざることが起きているのは事実だ。温暖化が脅威であることは疑いようがない。人類をあげての早急な対策が求められる。

 だが、一方で、二酸化炭素主犯説には疑問の声が出ている。真偽のほどを明らかにするだけの材料を、私は持ち得ない。ただ、「排出権の売買」には思わず首をひねる。環境問題の利権化と言えなくもないからだ。あたかも債権のごとくに取引されるなら、実体としての二酸化炭素が思いの外減らないことだってありうる。
 
 そもそも、私たちが沈思すべきは目先や近未来のことではない。温暖化もさることながら、百年後を見据え、自然と人間の関わり合いをどうするかが、何よりも問われているのだ。
 
 人類は科学によって自然を「征服」する、あるいは「搾取」することに力を注いできた。しかし、自然の一部である人間が自然を「征服」したり「搾取」する――そんなことは原理的にありえない。当然、さまざまなしっぺ返しをくらってきた。
 
 では、どうしたらいいのか。その答えははっきりしている。共存しかない。擬人化すれば、自然と人間がお互いに尊重しあい、助け合い、生存確率を高めていくということだ。そのための知恵こそが求められている。言わずもがなだが、それは極めて難事業である。木を切り倒し、川を埋め、地面を掘り起こすようなわけにはいかない。
 
「歴史的選挙」が始まった。だが、どの政党も視野狭窄に陥っている。環境問題が主要な争点になっていないだけではない。自然とのかかわりあいを見つめ直そうと主張する候補者をみかけない。未来を見通せない候補者に未来は託せない。(北村肇)

教育の最大の目標は、学力の向上ではなく、真の「人間力」の向上だ

 本誌編集部員の出身校は ほとんど知らない。関心もない。社会人になり35年。その体験から断言できる。学歴は仕事に関係ないし、仕事に熱意や自信のない人ほど学歴にこだわる。「それでも」と反論する人がいる。「学校での勉学は意味がある。どの学校でどんな勉学をしたかの違いは大きい」。一概に否定はしない。でも、その勉学が「知識の詰め込み」を指すなら無意味だ。

 授業時間を増やせ、土曜休校はやめろという声が強まっている。学力低下を憂える人も多い。いわゆる「ゆとり教育戦犯論」だ。新自由主義の信奉者ならわかるが、それなりにまっとうな知人にも同様の主張をする人がいる。同じ口から「平等で差別なき社会を目指す」とか言われると鼻白む。「学力低下は避けたい」との発想では、真の「平等な教育」など成り立つわけがないからだ。

 なぜ、日本の子どもたちの学力が世界一でなければならないのか。心底、理解できない。学校教育の場に不必要な「競争」を持ち込むことは百害あって一利なしだ。まして、単なる「学力」で世界一を目指すなど、戦前の富国強兵を思わせるようで虫酸が走る。

 底辺校という表現にも腹が立つ。「底辺」の意味は、生徒の成績が低いということである。成績が悪ければ校内暴力は多く素行にも問題がある、と思いこむ人もいるだろう。だが、何の証拠もない。いわゆる「頭のいい子」ばかりの学校は、すべてに「いい学校」なのだろうか。こちらも、証拠がない。「公立校の底辺校化」がゆとり教育の弊害にあげられるが、その背景には学力偏重主義が潜んでいるとしか思えない。

 愛国心教育の押しつけや教育現場での管理体制強化は論外であり、いちいち批判するにもあたらない。だが、「子どもたちの学力が落ちているのは問題だ」という言説の落とし穴には気づきにくい。「学力」に焦点をあてた時点で、たとえば知的な障がいを持った子は排除されるのである。革新的な主張をする人の中にも、「障害者は健常者とは別の場で教育すべき」という説を唱える人がいる。ゆとり教育の本旨は、成熟社会での共存共助を目指すこと。それが理解されていない。

 教育の最大の目標は学力向上ではない。人間力の向上にある。一つの生命体として生き延びるための知恵、すべての生命体を尊重し共存していくための知恵。それが真の人間力である。教室、教科書、校則に縛られた教育が果たして、人間力向上につながるのか。いま、極めて根源的な問いが突きつけられている。私たちにも、むろん政治家にも。(北村肇)

「選挙に強い」小沢一郎氏が墓穴を掘る可能性

 自称「選挙の神様」や「選挙のプロ」に何度も取材した。小選挙区制導入までは、彼らの”秘訣”にあまり違いはなかった。勝利への要諦はただ一点、「いつ、だれに、いくらブツ(現金)を配るか」だった。その裏返しの「有権者からカンパをもらう」も重要。「候補者からカネを受け取った人間が裏切ることはあるが、カンパを出した人間は確実に一票入れる。もったいないと思うからだ」。なるほどと納得した。むろん、これは主として自民党議員に関してのこと。社会党の場合は「いかに労組の協力を得るか」に集約された。

 首長選挙は、いささか様相が異なる。いわゆる”風”の影響が大きい。といって、単純にタレント頼みというわけでもない。消費税導入のときの千葉県知事選。共産党候補が「あわや当選」という事態になった。「大接戦」という世論調査の結果が出るまでは、保守陣営もマスコミも、事実上の無風選挙と高をくくっていた。誇張ではなく、上を下への大騒ぎだった。結局、自民党がしゃかりきになって動き辛勝に持ち込んだが、この選挙の風は「消費税反対」だったのだ。

 来たる総選挙はどうだろう。東京都議選の結果が示すように、反自民の風がここまで激しくては、比例での民主党勝利は揺るがない。だが地方区では「非政党」「世代交代」といった風が吹く。名古屋市長選、千葉市長選、静岡知事選は確かに民主系候補が勝った。しかし、その前をみれば橋下徹大阪知事、東国原英夫宮崎県知事、森田健作千葉県知事が誕生している。実態はともかく、彼らは「非政党」「世代交代」を売りにして無党派層の票をつかんだ。地方区の一騎打ち勝負では、民主党安泰とも言い切れない。

 このような事態に、「選挙に強い」小沢一郎氏はどう動くのか。非情なまでに候補者を吟味し、叱咤するはずだ。選挙の帰趨は一票で変わる。どんな手を使っても、一票を確実にとることしか勝利の方程式はない。このことを肌身で感じ取っている小沢氏は、一切の妥協を許さない。だから、あらゆる情報をもとに綿密に分析したデータと、地べたをはいずり回って運動する候補者しか信用しないのだ。
 
 だが私は「選挙に弱い」小沢氏を間近に見た。1991年の東京都知事選挙だ。自民党幹事長だった小沢氏は、公明党の要請もあったが、高齢の鈴木俊一氏では勝てないと踏み磯村尚徳氏を擁立した。極めて合理的で冷徹な判断のようにみえた。しかし取材者の立場からは、風を見誤っているとしか思えなかった。超高齢者社会を迎え、有権者の意識は「鈴木さんがかわいそう」に向かい、鈴木氏の圧勝に終わったのだ。風を生むのは「情」である。小沢氏が墓穴を掘る危険はそこにある。(北村肇)

「いい気分」だったのはセブン-イレブン本部だけ

 出張の荷物が減った。以前は電気カミソリから常備薬まで、細々としたものをバッグに詰めていた。ホテルの設備がよくなったこともあるが、コンビニの普及が大きい。どこに行っても24時間、開いているのだから、必要なものはみんな買うことができる。わざわざ重い思いをして持っていく必要はない。

 正月の様子も変わった。コンビニがないころは松の内に食料を求めるのは大変。おせち料理に頼るしかなかった。今は元旦から、弁当だっておにぎりだって買える。とにかく便利だ。とともに、「人間の食べる代物ではない」と投げ捨てたくなる商品は、以前に比べ影を潜めた。それなりに努力はしているのだろう。相変わらずの食品添加物てんこ盛りには閉口だが。

 昭和30年代の下町で幼少期を送った身には、小さな路地に並ぶ八百屋さん、魚屋さん、駄菓子屋さんの風情がなつかしい。といっても、ここまできてしまったら、もはやコンビニのない世界は想像できない。そして、天下のセブンーイレブンが、かように自分勝手な企業だったこともまた、想像できなかった。「いい気分」だったのは本部だけで、オーナーも取引業者も搾取され続けていたのである。いや、「搾取」は生ぬるい。もはや奴隷状態といってもいい。
 
 本誌は昨年から、一貫してセブン-イレブン商法を批判してきた。私自身、初めて知る事実が多く、そのたびに唖然とした。読者の反響も大きく、第一部の連載を『セブン-イレブンの正体』として単行本にまとめた。配本にあたって、取り次ぎ会社・トーハンの窓口と軽くもめた。セブン-イレブンジャパンの鈴木敏文会長はトーハンの副会長でもある。現場の社員がとまどうのは想定内だった。このあたりの事情は、インターネットでも話題になった。結果的に通常配本となったが、拒否されたら、徹底的に闘う気だったのは言うまでもない。
 
 閑話休題。裁判で「鈴木商法」が断罪されたこともあってか、公正取引委員会はセブン-イレブンに排除命令を出した。だが、今週号で指摘したように、同社が深く反省して商売を根本から改善するとは考えにくい。命令を逆手にとり、ますます「一強体制」を目指すのではないか、との見立てもある。コンビニ業界の経営が厳しくなれば、資本力のあるセブン-イレブンだけが生き残ることもありうるからだ。

 コンビニとは、「弁当も人もあっけらかんと捨てる技術」という意か。(北村肇)

東京都議選で一票を投じるべきは、真に強い「やさしい人」

「歴女」が増えているらしい。テレビの大河ドラマに登場する、直江兼続や前田慶次といった戦国武将の”追っかけ”というところか。草食系男子にあきたらない女性が、強い男に憧れる――そんな解釈もあるが、はたしてどうだろう。演じる男優を見る限り、いわゆるマッチョ系はいない。鎧も重そうな優男ばかりだ。

 女性誌の男性タレントランキングも、キムタクを筆頭にジャニーズ系が上位を占めるようになって久しい。「男っぽい」や「男くさい」が人気を得る時代は当面、きそうにない。憧れの対象は、兼続ではなく、およそ異なるタイプを演じるけなげな妻夫木聡であり、むしろその弱々しさが受けているのではないか。

 東京都議選が告示された。与党は相変わらず、“300万知事”でマッチョな石原慎太郎氏の人気をあてこんでいるらしい。だが、もはや神通力は失せている。本誌今週号で特集したように、新銀行東京ではミソをつけ、五輪招致は「あおれども都民は盛り上がらず」が実態。特に後者は、都市開発が真の目的という疑惑がふくらんでいる。何のことはない、一部のゼネコンと、企画を立てる電通に利益が流れ込むだけという構図だ。一方で、警備も含め莫大な経費は税金にはねかえり、都民には損失となる。

 石原氏の「男らしさ」という化けの皮もすっかり剥がれている。単に女性蔑視を“売り”にする差別的人間にしか見えない。「ババア発言」問題で多少、反省したかと思ったら、とんでもなかった。広報東京都臨時号に掲載された、IOC評価委員会、ナワル・ムータワキル委員長の写真に関し、またまた暴言を吐いたという。

 発言をそのまま記せば、「よほど若くて超美人ならわかるけど、あの人、元美人ではあるけどね、あれ見て、だれが、これはだれだかわからないんだよ」。まさに唖然とするばかり。

 いきがった強さや、男尊女卑の父性主義は底割れしている。肉食系にありがちな、弱さを隠すための強面ぶりにだまされる都民は、もはや多くない。いまの時代にもとめられるのは「やさしさ」である。むろん、それはおとなしいとか臆病とかではない。「自分の痛みより他者の痛みに敏感」な人を、私は「やさしい」と感じる。石原知事は過去の人なのだ。
 
 では、「強い」人とはどんな人か。性別に関係なく、「やさしさ」を行動に移す人だ。真に「強い」人にこそ、都議になって欲しい。ほとんど口の端にも上らなくなった「強きをくじき弱きを助ける」が、投票先を決める一つの指針である。(北村肇)