編集長コラム「金曜日から」 編集長のコラムを公開しています。

非武装中立がなぜ悪い。究極の理想国家は九条の実践から生まれる

意外な感がする。右派陣営はもちろん、左派と目される団体・個人の間でも死語化していた「非武装中立論」が蘇生しつつある。いや、これを「意外」と言うようでは、知らず知らず右旋回の風潮に毒されている証拠なのだろう。非武装中立を理想と信じて疑わない市民が数多く存在していたことに注目すべきだ。
 
 4半世紀前、社会党の石橋政嗣委員長が唱えて以来、非現実的、画に描いた餅と、さんざん攻撃されてきた。ネット上のフリー百科事典「ウィキペディア」で「非武装中立」を開くと、次のような「概要」が載っている。

「非武装中立論とは、日本独自の政策論ではなく、欧州においても社会防衛論として、軍事による国土防衛を放棄し、自国が外国軍隊によって占領されたとしても、他の手段(デモ、座り込み、ボイコット、非協力)によって他国からの領土支配を拒絶するとする政策論が知られている。しかしながら、国際法的な観点から次のような批判がなされている」

「戦争当事国の相手方が自国の領域へ新入することを、武器による抵抗をせずに受け入れることは、戦争当事国の一方だけに加担することになり、これは中立とはいえない」

「そして、結論的には、社会防衛論による戦争への抑止効果は、一般的な軍事力による抑止効果と比較して極めて微弱であるとされ、なんら戦争回避の効果的な手段となり得ないとの説が有力である」。

 この解説は、右派の言説に近い。では問いたい。仮に、軍事力で侵略を抑止したとして、その後にどのような国をつくるのか。本来、政治は、目標とする理想に向かって段階的な政策を打ち出し、実践していくものだ。

 だが、小泉純一郎氏や安倍晋三氏から、究極の理想たる国家像を聞いたことがない。「ありうべき国家」があいまいなまま軍事力強化を唱えれば、諸外国から「侵略国家を目指している」と猜疑の目で見られてもやむをえない。だから安倍氏などは、「戦争好き」と言われもするのだ。
 
 もともと、日本には究極の理想たる国家像がしっかりと存しているではないか、政治がすべきことは「九条の実践」にほかならないのだ――。秋の月を眺めながら、平和大好き人間は拳を握ってみる。(北村肇)

「『週刊金曜日』は赤雑誌」という激励に応え、安倍政権と闘います

先輩はまじめな表情で言った。「君は赤記者と呼ばれている。気をつけたほうがいいぞ」。30歳そこそこ、地方支局から社会部に異動したばかりだった。労働組合活動を熱心にしていたのが理由だったのだろう。それにしても、新聞社に「赤記者」なる名称が残っていることに唖然とした。思わず、しれっと言ってみた。「えっ、私は毎日、シャワーを浴びていますが」。

 だから「垢記者」ではないという、われながらくだらない洒落。どこまで真意が通じたかわからないが、先輩があきれ顔だったのは言うまでもない。その後も結構、目をかけてもらったので、上司に「北村にクギを刺して置け」と命じられ、しぶしぶ私にアドバイスをしたのかもしれない。
 
 もともと「赤」は共産主義者を指していた。「赤狩り」や「レッドパージ」では、共産党員はもちろん、支持者も弾圧された。それが許し難いのは当たり前だが、「赤」はいつのころからか、「権力に楯突く者」「組織のルールを守らない者」「上司の命令に従わない者」と拡大。いまや「生意気」もその範疇かもしれない。異常に、指し示す範囲が広がってしまったのだ。

 このまま進むと、国家や企業の意向に背いた人間は、すべて「赤」のレッテルを張られる危険さえある。社会全体を覆う、得も言われぬ息苦しい右傾化の風潮を見ると、極端な悲観論も出てくるというものだ。

 ネット上では時折、『週刊金曜日』は「赤雑誌」と評価される。この場合の「赤」は「権力に楯突く」の意だろうから、ありがたいことだ。“期待”に反しないよう、安倍政権も徹底的に追及していく。

 本誌今週号で、安倍晋三氏のブレーンと目される面々を特集した。すぐに「反国家」「非国民」と叫びそうな方々がいる。「日本はアジアの盟主。目指せ、大東亜共栄圏」と拳をあげそうな方々がいる。「女性は良妻賢母が一番。ジェンダーフリーなど葬り去れ」と主張しそうな方々がいる。小泉純一郎政氏もそうだったが、安倍氏は何とも闘いやすい相手だ。こちらが遠慮する必要がまったくないのだから。

 ちなみに私は赤緑色弱で、赤と緑が同じように見えたりする。人や環境に優しい「赤」もあるのだ。(北村肇)

『朝日』よおまえもか! 読むに耐えない「ご出産」社説

これが『朝日新聞』の社説かと天を仰いだ。
 
 冒頭から「紀子さまが男の子を出産された」とある。皇室関連記事では、原則として敬語を使用しないはずではなかったか。同様に普段は敬語を使わない『毎日新聞』が、一報を伝える夕刊の前文で「男児を出産された」と書いた。この一カ所だけではあったが、社内で「皇室敬語問題」の論議に若干ながら加わった者としては愕然とした。その点、『朝日』の夕刊は敬語無しを貫いており、さすがと思っていたところに翌日の社説だ。さらに目を疑ったのが次の一節である。

「国民にとっても大きな喜びであり、心からお祝いしたい」。

 本当にそうか。喜んでいなかったり、無関心な国民はいなかったというのか。現に私は、紀子さんの出産を「大きな喜び」と感じた人に出会っていない。仮にそれが「ごく一部の人」であったとしても、「国民」であることに違いはないだろう。
 
『毎日新聞』の場合、昭和天皇死去の際、当初の原稿では「皇居の森が悲しみに暮れる」といった類の表現が何カ所かあった。編集幹部が「森が悲しむはずはない」「国民すべてが哀悼しているかのような文章もまずい」と指摘、それなりにたんたんとした記事になった。それが当然だ。『朝日』が安易に「国民にとっても」などと使うのは、理解を超えている。

 社説の締めは、「男子の誕生で落ち着いて論じあう時間が与えられたと言える。この機会を生かし、じっくりと皇位継承のあり方について論議を広げたい」。それはそれとしても、決定的なことが抜け落ちている。論議は「天皇制のあり方そのもの」に広げなくてはならないのだ。このことを提言してこそジャーナリズムである。

「お子さまの動き」を詳細に伝えるNHKニュースは、天皇制の本質に切り込もうとしない。こちらも「国民にとっての慶事」だからか。繰り返し、「町の喜びの声」を流していたが、マイクを向けられた人の多くは、反射的に「おめでたい」と言ってしまう゛事実゛を、現場なら知っているはずだ。

 ことさらに『朝日』とNHKだけを批判する気はないが、心のどこかに「朝日神話」や「NHK神話」が残っている。神話が消滅する前に、ジャーナリズムの魂を取り戻してほしいと切に願う。(北村肇)

「国家」の蛮行に慟哭する地球の心音が聞こえてくる

 どくどくと心臓の音が聞こえる。自分の心音ではなく、地球の「それ」だ。しだいに大きく、かつ不整の度合いが深まっている。情緒的たわごと、ジャーナリストにふさわしくないと、切り捨てられても構わない。私にとって重要なのは、まごうことなく私の耳に「それ」が伝わってくる、その事実だ。

 国家にとって政治、とりわけ外交が個々の市民の尊厳を超えたものだと、いつ誰が決めたのか。究極の外交たる戦争の大義は、市民の生命を超えたものだと、いつ誰が決めたのか。結果的に市民を救い、市民の幸福につながるなど、おためごかしはやめてほしい。市民は自国だけではなく、敵国にも存在するのだ。

 辺見庸氏の近著(『いまここに在る恥』毎日新聞社)で読んだ一節がよみがえる。

「人の生は、いかなる国家にあっても、むろんいかなる民主主義国家であれ、痛々しく剥きだされるときがある。国家および国家幻想こそが人の生の皮をべりべりと剥ぐのだ」

 正義の戦争があるのだと居丈高に叫ぶ人たちがいる。正義とは、「他」の人の尊厳を傷つけず、守ることであったはずだ。いわずもがな、生命を奪うのは、もっとも正義とはかけはなれている。よしんば、侵略に抵抗する戦争が存在したとして、かりに避けられないことだったとして、それは「悪」をもって「悪」を制することにほかならない。正義の戦争は存在し得ないのである。

 誰かに襲われたら抵抗しないのか、愛する人が襲われたらどうか。そんな愚問に答える必要はない。圧倒的多数の市民を巻き込んだ戦争と個人の暴力を同じ地平でとらえるのは、国家の常道たる欺瞞にすぎないからだ。

 イスラエルのレバノン侵攻にいかなる大義があったとしても、市民を国家のはるか下に位置づける発想を許すべきではない。イラクや北朝鮮をならず者国家と糾弾しながら、イスラエルの蛮行を見て見ぬふりする米国を許すべきではない。その米国に隷属し続ける日本の為政者を許すべきではない。

 感情的と言われようが、情緒的と言われようが、「生命は地球より重い」。地球が慟哭し身悶えるのは、無駄死にさせられた人間の血と涙が、あまりにも重くのしかかるからだ。(北村肇)

「勘」の宰相の次は、「運」の宰相の出番か

 これはまずいと思いつつ、過去の自民党総裁がまともに感じられてきた。田中角栄氏や宮沢喜一氏はもちろん、「日本は不沈空母」の中曽根康弘氏や、「神の国」発言の森喜朗氏でさえ、それなりの存在感があったと、つい考えてしまう。日本をおかしな方向に引っ張った面々が相対的に浮上するほど、事態はひどい。
 
 もはや消化試合。天変地異でもない限り、安倍晋三氏が自民党総裁、つまりは首相に就任する。「郵政民営化」だけの小泉純一郎氏に続き、「何もない」安倍氏の登場である。

 小泉氏の場合は、それでも「自民党(的体質)をぶっ壊した」面はある。評価できるかどうかは別にして、派閥レベルで永田町が動きにくくなったのは事実だ。大衆煽動型政治を確立した点でも、名前は残るだろう(ただし悪役として)。
 
 だが、その小泉氏が実質上、推薦した安倍氏には、どんな実績があるのか。北朝鮮の拉致問題、NHKの番組改ざん問題以外、彼が゛活躍゛した場を思い浮かべることができないのは、私だけではないだろう。

『美しい国へ』を読んでも、政治家としての確固たる政策や信念が浮かび上がってこない。「闘う政治家」との言葉は踊っても、内容が伴わない。中には、どう解釈していいのか、首をひねらざるをえない部分もある。たとえば拉致問題のくだりで、こう書かれている。

「企業の駐在員をはじめ、海外で活動している日本人はたくさんいる。犯罪者やテロリストにたいして、「日本人に手をかけると日本国家が黙っていない」という姿勢を国家が見せることが、海外における日本人の経済活動を守ることにつながるのである」。

 ではイラクで日本人が拉致されたとき、なぜ「自己責任」の名のもとに冷淡とも思える態度に終始したのか。その説明はない。全体に、自分に都合のいいことだけつまみ食いした本だ。哲学のかけらも感じられない。
 
 安倍氏を応援する議員には下心がある。というより下心しかない。゛人気者゛に乗り、選挙に勝つ、役職をもらう。この連中の口から、「愛国」とか「国益」とか出てくると、のけぞってしまう。真に日本のことを思うなら、「安倍支持」はありえないはずだ。

 小泉氏は「勘」の宰相と言われた。ならば、安倍氏は「運」の宰相。(北村肇)