編集長コラム「金曜日から」 編集長のコラムを公開しています。

「暮らしにひそむ天皇制」を見て見ぬふりの「反天皇制運動」ではだめだ

 たまたま「ウィキペディア」で『週刊金曜日』の項をみていたら、私が「天皇制を容認した」ことに批判があると書かれていた。おそらく、チャンネル桜の番組で、「なぜこれだけ長く天皇制が続いているのか、そのことを考えなくてはならない」と発言したことを指しているのだろう。そもそも、「右翼的」とされる同局に出ること自体に、「仲間」の陣営から批判を受けてきた。書き込んだ人も同様の立場と思う。「菊タブー」は左翼・革新側にもあることを改めて感じる。

 天皇制について語るとき、「直ちに廃止すべき」「昭和天皇の戦争責任を許さない」と主張していれば文句を言われることはない。だが、そこにとどまる限り廃止への道は遠い。2000年の重みをもっと深刻に考えるべきだ。

 もし「まったく意味のない制度」と市民が考えていたなら、とうに消えているはずである。政治利用された時代も、天皇制の歴史の中でそう長くはない。むしろ、明治時代以降の天皇制が異質なのだ。天皇は「日本人」の精神に深く染み込んでしまっている――この事実を冷静に見据え、解釈しなければ何も始まらない。
 
「居間で上座に座るのはお父さん」という家庭があれば、そこにはすでに天皇制が浸潤している。混合名簿を使っていない学校は天皇制を包含している。「委員長の言葉は絶対」という労働組合は天皇制そのもの。「慈父賢母」の根底にあるのは天皇制。そういうことなのだ。そして、多くの市民がそれらを受け入れている現実――。

 宗教的、文化的な面での検証も深めなくてはならない。天皇家は「巫女」の役割を負いつづけているのか、「日本固有の文化」の伝承者として容認されてきたのか。これらに解答を得たうえで、「日本人」が描いている「天皇像」を分析する必要がある。

 このような実証的研究はさまざまに行なわれてきた。だが、反天皇制の運動は、どちらかというと「昭和天皇の戦争責任」にせばめられてきた感がある。だから、昭和が終わった時点で、運動の高揚感が薄れたかのような印象が社会を覆った。一方で、直接、戦争責任を負わない立場にいる「平成の天皇」のもと、ますます天皇制はじんわりと社会に染み込んでいった。
 
 政治性を帯びた天皇制に焦点をあわせるばかりで、暮らしにひそむそれを見て見ぬふりの「反天皇制運動」は、空念仏に終わってしまう可能性がある。(北村肇)

いよいよ正念場の民主党に芽吹きはあるのか

 鳩山政権の支持率が下げ止まらない。マスコミは鳩山由紀夫首相と小沢一郎幹事長の「政治とカネ問題」が要因と報じる。そうだろうか。一因ではあっても要因とは思えない。批判覚悟であえて言えば、たかだか政治資金の形式的事案だ。容認できることではないが、かといって悪質性が高いわけではない。多くの有権者はすでに、地検の国策捜査とマスコミのバカ騒ぎだったと見抜いている。

 さらに付け加えると、どちらも「過去の事件」である。最近は、どんなに大事件でも“賞味期限”はせいぜい3ヶ月だ。世論調査のたびに質問項目に上げられるので、新聞を読んでいると、また事件が尾を引いているようにみえる。しかし、市民・国民の関心はもう別のことに移っている。

 裏を返せば、「政治とカネ問題」がなくても、鳩山政権の支持率は下がるべき運命にあったのだ。危険水域といわれる30%を割り込んだ理由は、鳩山首相のふらつきぶりと小沢幹事長の独裁的党運営もあるが、何よりも民主党が「プチ自民党」に成り下がったことにある。

 政治主導といいながら、官僚、とりわけ財務官僚にいいように操られる、米国の顔色をうかがうばかりで沖縄県民を裏切る、「友愛」を掲げながら朝鮮高校を差別する、選挙目当てに業界団体をアメとムチで手なづける――書き連ねるだけでむかむかしてくる。どこが一体、「革命的な政権交代」なのだ。

 政権浮揚の切り札としては、事業仕分けしかないのが現状だ。このため、本誌今週号で取り上げた「新しい公共」を目立たせたいらしい。税制も含め、NGO、NPOへの支援強化は望ましいことだ。しかし、一歩間違えると民間利用の小さな政府論につながる危険性も含んでいる。評価できるかどうかはこれからの展開しだいである。

 民主党支持率が下がれば上がっていいはずの自民党支持率は、相変わらず低空飛行のままだ。「自民党よりはマシだ」という消極的支持者が私も含め数多くいるのだろう。再び多数派になった「無党派層」がどこに向かうかで、各党支持率は大きく変わる。
 
 沖縄米軍普天間基地移設問題決着の期限、5月末は目の前に来ている。7月11日予定の参議院選挙もすぐそこだ。晩春の桜は一陣の風によって散る。初夏の緑が一朝に芽吹くことはあるのか。いよいよ正念場の民主党。(北村肇)

米国の真の狙いは、「辺野古沖基地」ではなく「基地プラス“カネ”」だ

 オバマ大統領の「目」になって世界地図を見る。

「日本列島は、対中国、対ロシア、対北朝鮮の防波堤として理想的な弧を描いているな」
 
 次に「心」になって世界を考える。

「中国、ロシアと核戦争になる事態はありえない。『核戦略体制の見直し(NPR)』で強調したように、核保有の根本的な目的は核攻撃抑止だ。北朝鮮の軍事力もとるに足らない。韓国への軍事戦略は考えられない。挑発的発言もブラフだろう。であるなら、日本を浮沈空母にしておくだけではもったいない」

 再び「目」に映った日本列島。

「我が国の世界戦略に必要なカネを生み出す、打ち出の小槌に見えるなあ」

 日本国内の米軍基地が米国にとって極めて貴重であるのは間違いない。だが、かつてより重要度は下がっているはずだ。稲嶺進・名護市長が主張している通り、普天間基地の機能も必須ではなくなっている。本誌で何度か記事にしたが、米国にとってはグアムが最も枢要な戦略的基地である。
 
 そもそも普天間基地については、米国内でも「民家の密集地であり危険」という指摘がされている。また、あくまでも辺野古沖基地にこだわる合理的な理由も見あたらない。とどのつまり、米国は普天間移転を日本に高く売るため、あの手この手で攻めているようにしか見えないのだ。
 
 となれば、ギリギリのところで「妥協」も考えられる。ただし、相応の見返りがあればの話だ。それは例えば「辺野古沖以外での新基地建設プラス“カネ”」である。すでに日本は米国債を70兆円も買わされている。中国とともに、世界で一番「米国経済を支えている」国が日本だ。でも、まだまだ搾り取れるということだろう。
 
 小泉純一郎政権時代は、「年次改革要望書」に書き込めば、なんでも「はいはい」で終わった。さすがに政権交代後はそうもいかず、米国は別の脅しに出ているのだ。こんな「ならず者国家」に膝を屈する必要はない。わかっていますか鳩山さん。(北村肇) 

着物文化は「右翼の専売特許」ではない

 着物と聞くと、質屋を思い出す。祖母に連れられ、よく通った。幼児の私には意味がわからなかったが、店のおじさんのくれるあめ玉がうれしかった。後年、戦前はそれなりの「家」で育った祖母が、箪笥にしまっていた着物を生活費に替えていたことを知る。洋服を着ない祖母にとっては、身を切るような思いだったろう。

 水商売をしていた母親も「仕事着」は着物だった。日本舞踊を習っていたときは、私も時折、着物を身につけた。どちらかといえば、着物に囲まれた家であった。同年代の本誌編集委員、田中優子さんもいつも着物姿だ。敬愛する作家、澤地久枝さんも和服姿しか思い浮かばない。本誌今週号で、お二人に「きもの対談」をしていただいた。

 澤地 私は大人しくしていても恐ろしいことを考えていると思われるような生き方をしてきちゃったから、きっちりとしたスーツを着てピンヒールなんか履いてものを言ったらもう、ますます猛々しく見えるだろうなあと思ったのね。……それでたぶん着物が助けてくれるだろうと。
田中 たとえば講演するときには必ず着物なんですが、腹の据わり方が違う、と自分で思うんです。肩の力は抜けていて、腹は据わっている状態になるんです。そうすると、頭で考えて過激なことを言っているというのではなくて、本当に腹の底から思うことを言えばいいというか、そういう姿勢と共に着物を着ているんですね。

 着物を着ると、確かに引き締まった気分になる。子どものころは、身につけるのが嫌いではなかった。だが高校に入ったころから、夏の浴衣にもあまり手を通さなくなった。着物は戦前の異物であり、戦争責任が染み込んでいるかの印象にとらわれていた。

 大学に入ると、ますます過激化。「着物は右翼の専売特許」とすら感じるようになった。それどころか、「日本固有の文化」や「伝統」はすべて天皇制につながるとして忌避した。若いとはいえ、単純すぎた。着物文化が戦争を起こしたわけではない。諸悪の根源は、他国を侵略し日本固有の文化を押しつけること、天皇制にからめ国民に強制することだ。

 これらのことを頭では理解している。だが、どうしても「伝統」という言葉は気分的になじめない。新しい学習指導要領では「伝統」を重視した教育が実践されるなどと聞くと、ますますむかつく。「国家の強制」はこの国の「伝統」なのかと言いたくなってくる。ただその思いが強すぎると、意図せずに他国の文化や伝統をすら否定してしまう危険性がある。心しておきたい。(北村肇)

人類には、そんなに働かなくても暮らしていけるだけの「余剰時間」があるはずだ

 おかしい。どう考えてもおかしい。何で多くの労働者が長時間労働にさいなまれているのか。一方で、働きたくても場がなく、貧困にあえぐ人がなぜ生まれるのか。科学の発展は「時間」を生み出すはずだ。身近な例で言えば、1時間かかっていた洗濯が洗濯機のお陰で10分に縮まれば、50分浮く。農業や製造業分野では、さらに桁違いの「時間」が浮いているはずだ。すべてを蓄積したら大変な「時間」になる。

 第3次産業や消費産業が主流になる社会は、生活するために必要な物資が、かつてよりはるかに少ない労働力でまかなえる社会だ。仮に十分な食糧の生産ができなければ1次産業に携わる労働者がもっと必要になり、人類にとって、サービス産業に多くの人力がかかわる余裕はなくなるだろう。
 
 現実社会では、「モノ」を製造しない、あるいは生産しない職種が次々に生まれている。本格的な新自由主義時代に入ると、マネーゲーム産業ともいうべき「カネ」のみを扱う究極のビジネスが肥大化し、リーマンショックで明らかなように、世界を激動させるだけの影響力を持ってしまった。
 
 こうした状況を見る限り、地球上のすべての人間が、飢えもなく長時間労働もなく暮らしていけるだけの「余剰価値」は、もう十分、蓄えられているはずだ。それが公平に分配されていないことが問題なのである。

 本誌今週号は、就職戦線を特集した。長期不況の出口が見えない中、今年も買い手市場のようだ。大学生の間では、「卒業イコール失業者」という、笑うに笑えないギャグがとびかっているという。明治安田生命保険のアンケート調査によると、新入社員の51.9%が終身雇用を望み、「いずれ起業・独立」と答えた人は7.5%にとどまった。これも、厳しい就職戦線を表すデータといえよう。

 大学生でもこうなのだから、仕事を求める高校生や中高年にとっての現実はより深刻である。だが、国の対策がはっきりしない。「福祉や環境分野の労働市場を広げる」というお題目はあるが、具体的な政策が一向に見えてこない。
 
 まして、人類の知恵が生んだはずの「余剰時間」をどう配分するのかという根本的課題について、論議した様子は影も形もない。政権交代が「革命」と言うのなら、すべての人の生活を保障する、真の平等に向けての思い切った舵取りをすべきだ。(北村肇)