編集長コラム「金曜日から」 編集長のコラムを公開しています。

知事にしてはいけない人間に投票した有権者へ「あなたも間違っている」と言いたい

「森田健作知事ねえ。まあ千葉だから」「あんたにそんなこと言われたくない。東京は石原慎太郎だろう。そういえば、大阪なんて橋下徹だよ」「いやいや、そのまんま東の宮崎には負けている」。最近、これに類した会話を何度したことか。そのつど、絶望的に自問を繰り返す。「有権者批判はどこまで許されるのか」。

 パレスチナを考える。ハマスは選挙で選ばれた正当な政権だ。米国を筆頭に、西側諸国がどう批判しようと、その原点が揺らぐことはない。森田氏、石原氏、東国原氏もれっきとした「選良に選ばれた」首長であり、しかも圧倒的な支持を受けている。理念や主張が異なるからというだけで、徹底的に指弾していいものか。

 いや、パレスチナとは根本的に違う。生死をかけた日常の中で行なわれた選挙で、ハマスは勝った。これに比し、テレビの延長線上にある、おちゃらけた風情で票を獲得した彼らは政治家ではない。やはり、投票した人にも「あなたは間違っている」と言いたい。ただ問題は、「間違っている」ことをどういう言葉で伝えればいいかだ。

 タレント知事で思い出すのは青島幸夫氏。かつてこの欄でも触れたが、当選して一番、泡を食ったのは本人だった。新聞社の社会部記者として直接、取材していたので事実として語れる。「何をしていいかわからない」青島氏は、公約の「臨海副都心開発の見直し」に形をつけると、あとの政策は職員に丸投げだった。

 投票した側はどうだったのか。有権者にインタビューすると「面白いから」という答えが多かった。「青島氏が面白い」より、「素人にやらせたほうが面白い」といった感覚に思えた。都知事選そのものをギャグに見立てていたのだ。タレント議員は掃いて捨てるほどいる。あの小泉純一郎氏も、政治家の資質というよりタレント性で勝ち抜いてきた。彼ら、彼女らの多くは、ギャグを期待する有権者に支えられた“政治の素人”なのである。

 有権者批判の前に、劇場型選挙をあおったマスコミを弾劾すべきだという主張がある。それを否定はしない。しかし、新聞やメディアに文句をつけているだけでは何も解決しない。「自立した有権者になることがいかに大切か」ということを市民の共通認識にするための言葉が重要なのだ。

 少数派であることを認識した上で、その言葉を見つけたい。腰を下げ、目線を低くし、決して排除主義に陥らない姿勢で。(北村肇)

オバマ政権と『子供の情景』

 19歳のとき、何を考え何をして何を創っていたのか。大学では興味のわく講座だけをとり、午後はデモに参加、夜は飲み歌い議論、たまに徹夜で麻雀をする。サークルで「米帝・日帝」を分析し、それなりに「国家」を考えた気分になり、心理学や哲学の本を読みあさりもした。だが何も創ってはいなかった。

 映画『子供の情景』は、ハナ・アフマルバフ監督が19歳のときの作品だ。終わりなき戦争に陥ったアフガニスタンの現実を、子どもの目を通して鮮烈に描いている。イランを代表する監督、モフセン・アフマルバフ氏の血を引くとはいえ、その力量には驚くばかりだ。(4月18日より東京の岩波ホールで上映)

 戦闘場面は何一つ出てこない。学校に行きたくて仕方のない少女が、苦労してノートを手にして教室に潜り込むが追い出される。その半日の様子が、タリバンに破壊されたバーミヤンの仏像を背景に展開する。6歳の主人公を始め、出演した子どもたちは全員が現地でのオーディションで選ばれた。

 印象深いのは、子どもたちに笑顔のないことだ。愛くるしい主人公を除き、みんな大人のような表情をしている。特にタリバンの戦争ごっこの場面では、我知らず恐怖感を覚えるような目つきで“遊び”に興じる。国家が、社会が、子どもたちの笑顔も教育の機会も奪った、その現実がずしりと響いてくる。

 発足から約3カ月を迎えたオバマ政権は、イラクからアフガニスタンへと戦線移動する方針を掲げている。力による侵攻だけではなく、タリバンとの話し合いの姿勢もみせてはいるが、仮に交渉するとしても、とりあえずは軍事的に優位に立ってからという戦略だろう。となれば、当然、米国にとって日本の自衛隊は重要な存在になる。今後、イラクと同様、あるいはそれ以上の「参戦」を求められるのは避けられない。親会社・米国に頭の上がらない子会社・日本の麻生首相が「NO!」と言うはずもない。かくして日本は、アフガニスタンの子どもたちから、さらに笑顔を奪いとることになるのだ。

「思想的、政治的、社会的な抑圧に耐えなければならない現在のイランで暮らす10代の女性として、たくさんいいたいことがあります」と語るハナさん。軍事力は、イランやアフガニスタンを破壊することはあっても、平和を創ることはできない。そんなメッセージを、未だに「何かを創った」と胸を張って言うことの出来ない、日本に住む57歳の胸に受け止めた。(北村肇)

「北朝鮮ミサイル騒動」の陰に隠された二つの事実

 まだエイプリールフールが続いていたのかなと思わせる、まっこと鼻白む茶番だった。はなから日本領土に打ち込まれる可能性はなく、落下物の危険性も交通事故に遭うより低いことがわかっていながら、ものものしい戦時体制を敷き「国家の危機」を演出した政府。NHKを筆頭に、それをほとんど無批判に報じ続けたマスコミ。

 だが、「北朝鮮ミサイル騒動」を単に茶番と片付けるわけにはいかない。国をあげての猿芝居の陰には、重要な事実が隠されているからだ。

 一つは、市民の危機意識をあおり利益を得る連中のいること。わかりやすいのは「麻生首相の点数稼ぎ」だ。為政者は、危機的状況、しかもそこに「戦争」のにおいがあるほど人気を高めやすい。まして相手は「拉致の国」。小泉純一郎氏や安倍晋三氏が支持率を高めるきっかけになった北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)バッシングは、麻生首相にとって切り札である。

 外務省や防衛省も千載一遇の機会ととらえたのだろう。何しろ米国の圧力で1兆円もかけて構築したMDシステムだ。宝の持ち腐れになったら、いずれは市民・国民から批判を受けるのは避けられない。それが今回の騒ぎで市民権をえられるとなれば、まさに棚からぼたもちみたいなものだ。また、最後に笑うのが米国なのは言うまでもない。MDに実効性のないことは明らかで、北朝鮮脅威論をきっかけに日本へ横流しできれば、「在庫一掃」ができるかもしれないのだから。

 さらには、もっともほくそ笑んでいたのは北朝鮮かもしれない。そもそも、今回の打ち上げには、「米国との交渉を有利に運ぶ」、「国内の引き締め」という二つの目的があったと思われる。この観点からすれば、日朝の緊張関係は望むところだ。日本が迎撃用ミサイルの配備という愚を犯すと、北朝鮮は直ちに「軍事的行動も含め反撃する」といった内容の声明を出した。同国にしてみれば、思う壺だったのだろう。

 隠蔽された二つめの事実は、宇宙開発とはすなわち「世界支配のための戦略」という実態である。ロケットとミサイルが実は同一のものであることが、はしなくも浮き彫りになった。仮に弾頭には衛星がついていたとしても、米国にとって重要なのは、北朝鮮のロケット技術が発展しつつあるというその一点だった。大陸、海洋、宇宙空間、すべてをわがものにしたい米国が恐れているのは、大陸間弾道弾だけではなく、他国による宇宙への進出そのものなのだ。(北村肇)

非現実的でバーチャルな感じを漂わせる東京地検の捜査

 そこに沈丁花が咲いていれば、つい鼻を近付けたくなる。そこに日だまりでうたた寝する子猫がいれば、ふと撫でたくなる。嗅ぐ、触るという行為は、特に頭で考えることもなく自然のふるまいとして表れる。それはまた、視覚・聴覚の点では限りなく現実に接近するテレビやパソコンには求められない感覚である。

 昔話や童話に出てくるごうつくばりは、金貨を眺めるだけでは飽きたらず、手で愛撫したり頬ずりしたりする。「血も涙もない」人間として描かれる彼らはしかし、五感をもって財宝を慈しむことで、極めて人間的存在とも言えるのだ。さて、現代、パソコンを駆使してマネーゲームに興じる現代の大金持ちが、触覚で財を愛でることはない。その代わり、液晶画面における数字やグラフの変動を目で見て、一喜一憂するのだろう。

 こうなると、カネはカネであってカネではない。当然、カネをめぐる犯罪も変化する。インサイダー取引、M&Aにからんだ事件が、どこか非現実的でバーチャルな感じなのはそのためだ。

 ライブドア事件や村上ファンド事件には生々しいカネのにおいがなかった。摘発した地検は、さまざまな要素・変数を組み込み、パソコン上で計算し結果を出しているようにみえた。そして、問題はこの「変数」だ。ここに何を入れるかで、犯罪が成立するかどうかという、最も基本的なことが変わってしまう。言い換えれば、検事の頭の中だけで、犯行が構成される危険があるのだ。それはつまり、犯罪をなきものにすることも可能ということである。国策捜査や冤罪の頻発は必然とも言えよう。
 
 小沢一郎氏の秘書が起訴された事件は、マネーゲームとは直接、関連しない。だが当初から、地検の筋立てには非現実的でバーチャルな感じがした。パソコン上で、「容疑者・小沢一郎」との解を導き出すために、さまざまな「変数」を入れて計算した。そんな雰囲気が否応なく漂っていたのである。
 
 本来、罪を裁くとは人を救うことである。被害者、関係者、市民、場合によっては、加害者さえも救済する。だが、時に国家は「体制を救う」との大義名分で無実の市民を牢につないできた。
 
 知的エリート集団・地検は、その「血も涙もない」国家を守る風を装いながら、自らの力の誇示に汲々としているようにみえる。(北村肇)