編集長コラム「金曜日から」 編集長のコラムを公開しています。

民営化による労働運動つぶしがもたらした、もの言わぬ社員、もの言わぬ市民・国民。緊張感を失った国や企業はゆっくりと崩壊していく

 不吉な星の下に生まれたんだろうと、友人にからかわれる。入った大学は「廃校」になり、就職試験を受けた出版社、新聞社はその後、どちらも事実上の「倒産」をした。

 入社したのは新聞社のほうだった。取材不足で、深刻な経営危機に陥っていることを知らなかった。実感したのは二年目の冬。一時金(賞与)が一気に前年の七分の一に減ったのだ。さすがにショックだった。同業他社から「うちに来ないか」という誘いもあった。それでも辞めなかった理由の一つに、労働組合の存在がある。再建に向け、髪振り乱して奮闘する委員長らの姿は感動的ですらあった。
 
 後年、自ら組合委員長に就いた際、「倒産」時に組合の顧問弁護士だった方にこんな裏話を聞いた。

「会社の存続に目処がついたときメーンバンクを訪ねたら、担当役員が打ち明けました。『組合がなかったら、どうなっていたかわからないですね』と。銀行は、経営陣というより、組合を信頼して救済に乗り出したんですよ」

 なるほど当時は、労使ともに、「会社を守るため」なりふり構わずぶつかりあった。組合は誌面刷新の提案まで行ない、会社も応じた。そうしたことが、結果的に社員の志気を高め、再建にこぎつけたのだ。

 かように組合が企業を支えることは珍しくない。だが17年前、この国の権力者は、国労つぶしを狙って国鉄を民営化、2年後、総評は消えた。労働組合の勢いは急速にしぼみ、組合離れが加速度的に速まった。「何かというと政策に反対する『闘う組合』を一掃したい」という、政府や自民党、そして財界の思惑はまんまんと成功したかにみえる。

 しかしそれは、あまりに近視眼的発想である。経営陣と組合。与党と野党。そこにある緊張感こそが企業や国家の発展につながるのだ。もの言わぬ社員、もの言わぬ市民・国民ばかりになったとき、組織はゆっくりと崩壊していく。

 民営化による労働運動つぶし。そのツケはいま、日本全体に回りつつある。(北村肇)

目に見える成果はないが、存在自体が「実績」。こんなベテラン社員には高い評価をつける。この辺の機微がわからない限り成果主義は成功しない。

 人を「評価」する立場になってから十年近くになる。新聞社の社会部デスクになり、初めて部員を採点するときは悩んだ。何より私情が混じるのではないかと、自分自身に不安だった。そんな折り、救いになったのが、人事畑の長い役員の一言だった。

「人事評価は実績七、好み三ですればいい。人間は誰しも好き嫌いがあるから、絶対的評価などありえないんだよ」

 およそ「閥」をつくらず、仲間と酒を飲むこともなかった人の言葉だけに説得力があった。以来、評価にさほど頭を悩ませることがなくなった。不思議なもので、「好み三」の逃げ道を自分に与えると、かえって客観的に判断できる。

 どの企業でもそうだろうが、上司は「がんばっている」部下がかわいい。中には「ゴマをすってくれる」社員をえこひいきする幹部もいるが、これは論外。人を評価する地位に座るべきではない。もともと記者の場合は、結果がすべてだ。「記事にはならなかったけどがんばった」という“善戦”はない。仮に、大した努力もせず運だけだったとしても、いいネタをとれば勝ちである。その点、評価はしやすいのだ。

 同じような実績の記者に、どうしても優劣をつけなくてはならない場合は、「好み三」がはたらく。それは仕方がない。本来、完璧に数値化された評価など存在し得ないのだから、「エイヤ!」といってしまえ。先述した先輩の言葉に勇気づけられて、こう“開き直る”と、気が楽になり、かえって冷静に採点できるのだ。

 では、たとえば「いるだけで周りが安心するベテラン記者」はどうか。これといった記事を書くわけではない。その意味では、特に社業に貢献してもいない。企業によっては、直ちにリストラの対象になるだろう。だが職場の重石として、知恵袋として、あるいは触媒として、存在自体が「実績」なのだから、高評価が当然だ。この辺の機微がわからない限り、成果主義は意味をなさない。(北村肇)

ブッシュの狙いは日本列島基地化だ。まさしく空爆なき侵略である。それを知ってブッシュ再選を願ったとしたら、小泉首相、あなたこそ非国民だ

 ブッシュ再選の一報が載った全国紙の片隅に、こんな関連記事があった。「3日のニューヨーク株式市場は、ブッシュ大統領の再選を好感し、急騰して始まった。……軍需、エネルギー、医薬品の各業界などに幅広く買い注文が広がった」。ベタ(一段見出し)扱いだが、大統領選の実相を如実に表している。ブッシュの勝利は、突き抜けた資本主義がもたらしたのである。

 何が突き抜けたのか。冷戦崩壊後、米国は「慎み」も「憐憫の情」も、一切かなぐり捨ててきた。自国の経済的利益のためなら、他国や他民族を踏みにじっても、何ら痛みを感じない怪物に成り下がった。それを完成させたのがブッシュとその取り巻きである。

 今回の大統領選はイラク戦争の是非が焦点になった。そのイラク侵略の根底に石油利権がからんでいたのは、いまや常識ですらある。ブッシュ陣営が躍起になってケリーを追い落としたのは、「国家として、大義ある戦争は避けられない」といった、それこそ大義を守るためではない。利権を失いたくなかっただけだ。そして、今後も「合法的」に他国から利権をもぎとりたいからだ。株式市場は、そんな連中の勝利を「好感」したのである。

 ブッシュが大統領である限り、イランも中南米各国も、いつ攻撃対象になるかわからない。エネルギー資源を持つ国は、どこでもイラクになりうるのだ。

 日本はどうか。石油も天然ガスもない。だが米国の狙いは別にある。ブッシュ政権がごり押ししてくるであろう米軍再編成の狙いは日本列島基地化だ。まさしく空爆なき侵略である。これは間違いなく米国の赤字解消につながり、ニューヨーク株式市場の株価も上がるだろう。

 米国が、自衛隊のイラク参戦を強要し、憲法改定を求めているのは、自衛隊を米軍の補完勢力にしたいからにほかならない。そもそも、日米安保条約は、米国が日本を守るためにあるのではない。日本を米軍の手足にするための条約である。

 そうしたことを知ってブッシュ再選を願ったとしたら、小泉首相、あなたこそ非国民だ。(北村肇)

「生命」にかかわる二つのニュースで見えたもの、それは、この国の為政者は災害や武装勢力より恐ろしいということだ

 その日、テレビは「生命」にかかわる二つのニュースを交互に流していた。新潟県中越地震で、土砂に埋もれた車から幼児が救い出されたときは、現場記者も興奮していた。一方、イラクで武装勢力の人質になった男性のビデオは、たんたんと伝えられた。
 
 二つの事件を特に関連づける要素はない。だが前者は災害被害で、後者は自ら危険地帯に赴いた自業自得の結果、と断じるのは乱暴にすぎる。

 土砂崩れの直接の原因は、台風による地盤のゆるみと大地震だが、真因はほかにあるのではないか。一言で言えば、ずさんな都市計画だ。一種の「政策災」とも言えよう。

 新潟県といえば、故田中角栄氏の地盤。日本列島改造論の掛け声のもと、新幹線が通り、高速道路が整備された。今回、その新幹線や高速道路が脆弱さを露呈する一方で、村が孤立するという現実を浮かび上がらせた。本当の「街づくり」とは何かが、改めて問われている。

 人質事件はどうか。結果は最悪の事態になった。いかなる理由があれ、無辜の市民を人質にし惨殺するのは卑劣であり、断固許せない。しかし、イラクへの自衛隊派兵により、日本人すべてに人質の危険をもたらした政府の責任を免除するわけにはいかないのだ。

 事件発生当初、例によって政府からは、「あれほど危険地域には行かないよう要請したのに」という発言が漏れてきた。相も変わらぬ自己責任論だ。さすがに、事態が深刻化するにつれ、「救出に全力を」に変わったが、「根本問題はイラク派兵にある」という点には、まったく触れなかった。そのくせ、「テロの残忍性」「テロには屈せず」を強調し、自衛隊の撤退はしないと繰り返す。米国でさえ事実上、イラク戦争に「大義名分」がなかったことを認めざるをえないのに、なぜ非を認めないのか。これからもまだ、イラクの、日本の市民に被害者を出し続けようというのか。

 何しろ、国が守るべき憲法を、国民の義務規定の法に変えようという人たちだ。政策の失敗に頬被りし平気でいられるような為政者は、災害や武装勢力より、さらに恐ろしいかもしれない。(北村肇)