2010 年 3 月 5 日
9:00 AM
|
カテゴリー: 一筆不乱
| by
北村 肇 |
タグ:ブレア, 小泉純一郎
赦したい。どんな人でも、たとえ何があっても。赦すことで自分が救われる。うらんだり、なじったりしても、それはとりあえずの頓服薬にしかならない。結局は心の免疫力を低下させ、うらみの閾値が下がっていくだけだ。そして、一旦、負の連鎖にはまりこむと、容易には抜け出せない。その先にあるのは自己嫌悪だけ。
わがままで気が短く、すぐに泣きわめく。そんな子どもだった。困った祖父母が私の手に何度も墨で「鬼」と書いた。”さわぎの虫”が出て行くおまじない。じっと見ていると、白い糸のようなものが掌から立ち上っていく(気がした)。そのおかげもあってか、随分と我慢強く寛容な大人になった(気がする)。
しかし、やはり、どうしても赦せないことは赦せない。赦せない人間は赦せない。とりわけ、強い力と影響力をもった人間が、他者を虐げ、踏みつけることは断固として赦せない。
その顔を見ると、にわかに「寛容な自分」が消え失せる。小泉純一郎元首相がそうだ。米国のイラク侵略をいち早く支持しただけではなく、口先のごまかしで市民・国民を騙し続けた。英国のブレア前首相と同罪である。
イラク戦争の“正当性”を調査している英国の独立調査委員会は1月29日、ブレア氏を証人喚問した。AFPはこう伝えている。
「公聴会から一夜明けた30日の英各紙は、参戦を後悔していないという前首相の証言に衝撃を受けた様子の論調が目立った。英紙ガーディアンは……『委員らは後悔していないかと質問することで、ブレア氏に『謙遜への招待状』を手渡した。傍聴席にイラクで死亡した兵士の遺族もいたことは彼も知っていたはずだが、ブレア氏はその招待状を吹き飛ばした。これが、ほぼ完璧だったこの日のパフォーマンスのなかで唯一の欠点だった。傍聴者は自制心を失い、会場はブーイングと涙であふれた』(と報じた)」
ブレア氏同様、何ら反省もない小泉氏は、喚問されることもなく、息子を後継者として国会に送り込んだ。紛れもないイラク戦争の”戦犯”がヘラヘラとした笑顔をみせる姿に虫酸が走る。民主党連立政権は、一刻も早く調査委員会を立ち上げるべきだ。いかなる戦争も、都合のいい大義名分を貼り付けた大量殺人にほかならない。イラクへの侵略から7年。”戦犯”に時効はない。(北村肇)
2010 年 2 月 26 日
9:00 AM
|
カテゴリー: 一筆不乱
| by
北村 肇 |
タグ:派遣法
厚労省がせっせとインフルエンザの空騒ぎを演出していたころ、マスクの価格が暴騰した。そもそも品薄で買うこと自体が難しかった。やむをえず、薬局で見かけたら大量購入に走った。いまは価格も落ち着き、いつでもどこでも買える。で、ふと思う。一昔前は、ガーゼのマスクを何度も洗っては使っていたよな――。
使い捨て文化にどっぷりとはまりこんでいる。いまは「貼るカイロ」が当たり前だが、子どもころは白金懐炉という優れものがあった。必需品のウエットティッシュも、雑巾があれば本当はいらない。「何度も使う」という発想をどこかに置き忘れてしまった。「便利」優先時代に毒されている自分に気づき、はっとする。
派遣労働者は企業にとって紙マスクやティッシュにすぎない。用が済んだらポイ捨て――。「こんな事態を生んだ原因には労働者派遣法がある」と主張していた民主党が政権の座についた。大いに期待していたが、どんどん改悪案に向かっていった。
09年6月、当時は野党だった民主・社民・国民新党の3党が国会に提出した改正案には、労働者保護の姿勢が見られた。「登録型派遣の禁止、製造業派遣・日雇い派遣の廃止、派遣先責任の強化」などが柱に据えられた。
これに対し自公政権が08年11月に臨時国会に提出していた改正案は、現行法をほぼ踏襲したものだった。そして09年8月に新政権誕生。当然、3党案を基盤にした法案が今国会に提出されるものと思っていた。
ところが、本誌今週号で特集したように、厚生労働省の諮問機関である労働政策審議会は09年12月、3党案からは大きく後退する内容の報告を出した。そもそも部会長の清家篤慶應義塾長は「今回、新たに議論を行なうに当たっても、まずこれ(旧政府案)を尊重していただきたい」と切り出したという。
報告内容に沿った形になったらどうなるのか。たとえば登録型派遣は禁止するが、常用雇用については例外とされている。だが常用雇用の定義が示されていないので、このままでは企業の裁量に任されることになり、真の意味での「常用」にならない危険性がある。
労政審の報告に沿った法案が提出される見通しだ。鳩山首相は、有権者との約束を守らなければポイ捨て政権になると、どこまで認識していることやら。(北村肇)
2010 年 2 月 19 日
9:00 AM
|
カテゴリー: 一筆不乱
| by
北村 肇 |
タグ:トヨタ
トヨタの崩壊は日本の崩壊につながる。経済面のことを言っているのではない。トヨタは、効率を優先し株主を優遇し、「いのち」を粗末にしてきた。そのなれの果てが今の姿だ。この国もまた、新自由主義を導入し大企業を優遇し米国に隷属し、「いのち」を粗末にしてきた。落日トヨタとみごとに重なる。
「顧客第一が経営理念」。豊田章男社長は記者会見で強調した。この期に及んで、ブレーキの不具合に対し「踏み増せば止まる」と経営幹部が漏らしてしまう企業。「車はいのちを乗せるもの」という認識も、安全をすべてに最優先させる覚悟もあるとは思えない。トップのお題目は白々しく聞こえるばかりだ。
愛知を中心に中部地方では圧倒的な影響力を誇る『中日新聞』。かつては「トヨタ批判をしない新聞」と批判的にとらえられたこともあるが、ここ数年、同社への厳しい記事が目立ち、注目を集めている。『中日新聞』東京本社発行の『東京新聞』2月12日朝刊。前日から始まった連載企画「崩れた信頼 トヨタリコール問題」に次のような一節があった。
「トヨタは拡大期に車種数を増やし、新車の開発期間も5~6年から3~4年に短縮した。華やかな新車が続々と登場する裏で『現場には余裕がなくなっている』(開発担当者)。お家芸のコスト削減は開発現場にも及び『試作車づくりの回数が減った代わりに、図面上での確認が増えた』と明かす。新型プリウスも、こうした環境の下で開発された。ブレーキ不具合について、開発の第一線は『見落とし』の可能性を否定しない」
全国紙に比べ、『中日新聞』の記者はよりトヨタの内情に通じているはずだ。コスト削減に走るあまり安全がおろそかにされたという指摘は、的を外していないだろう。それが開発現場にまで影を落としていたとあっては、顧客第一主義も世界一の技術も、いまのトヨタには画餅にすぎない。
トヨタはまた、顧客だけではなく従業員も粗末に扱った。カンバン方式とはつまり人間を機械のパーツにすることにほかならない。取り替え可能な意思を持たないパーツ。それこそがトヨタの高収益をもたらしたのだ。
一方で、一連のトヨタたたきの背景には米国の思惑があるとの見方も出ている。自国の利益最優先、世界でも名だたる「いのち」を粗末にする国だ。あってもおかしくはない。トヨタ神話、日本神話崩壊の先に、米国のなれの果ての姿が見えてくる。(北村肇)
2010 年 2 月 12 日
9:00 AM
|
カテゴリー: 一筆不乱
| by
北村 肇 |
タグ:福山雅治, 龍馬
源義経、織田信長、そして坂本龍馬――歴史上の「ヒーロー」に共通するもの。それは「非業の死」や「無念の死」だ。志半ばで斃れることで、一気に伝説化する。秀吉や家康を演じるのは主として個性的な俳優だが、先の3人はイケメンタレントの場合が多い。悲劇をもとにドラマ性を追求するからだろう。
NHKの『龍馬伝』が予想以上の視聴率を稼いでいる。現存する写真と福山雅治ではかなり違うが、まあ、そんなことはどうでもいい。所詮は大河ドラマ。そう割り切ってはいたものの、大型書店で『坂の上の雲』とともに龍馬本がうずたかく積まれているのを見ると、いささかざわざわとした気分に襲われる。
英雄不在の時代。これだけ画一的な教育が行なわれ、横並びの美徳が蔓延しては、どこか突出した傑物が出現する余地は極めて少ない。歴史上の人物やアニメの主人公に夢を託すのは必然の流れだ。そして、それを悪利用する輩が必ず出てくる。
本誌今週号は、「龍馬大絶賛」に水を差す特集を展開した。歴史をひもとけば、幕藩体制維持派と倒幕派の権力闘争に参加した一人にすぎないともいえる。また武器商人の一面もある。国を憂い国を思う純粋な革命志士なのか、利にさとい商売人なのか、判断に迷う人物というのが実態だ。
だが、『坂の上の雲』の秋山兄弟もそうだが、龍馬は私利私欲のない英雄として描かれる。その先には、「明治時代はよかった」「あのころの日本に戻ろう」「世界の超一流国を目指そう」という路線が敷かれている。一歩、間違えれば「大日本帝国の夢よ再び」になりかねない。
話がずれるが、漫画『島耕作』の変質ぶりは凄まじい。課長くらいまではサラリーマン社会の悲哀がそこそこ描かれていたが、社長に就任したいまは、新自由主義の先兵と化している。とともに自民党のスポークスマン役を買っている。ここまでくると「漫画のことだから」と看過するわけにもいかない。
龍馬に戻るが、原稿依頼しても「関心がない」と何人かの方に断られた。中には「龍馬は嫌いではない」という人もいた。確かに革命家の匂いはもっている。実は、私も心のどこかで「つくられた龍馬」を受け入れたりしている。だから、少しはヘソ曲がりにならないと、ついつい騙されてしまう。(北村肇)
「正義」の定義は難しい。何しろ、米国にすればベトナム戦争もイラク戦争も正義となってしまう。だが、「不正義」はそれなりに言葉で表現できる気もする。「『力』によって他者を虐げ、あるいは私利私欲を図る行為」――。この解釈に従ったとき、小沢一郎氏をめぐる東京地検特捜部の捜査は「不正義」だろうか。
特捜部が「力」を持っているのは間違いない。仮に国策捜査の色合いが濃ければ「他者を虐げ」につながる。しかし「私利私欲」があるとは思えない。では小沢氏はどうか。ゼネコンに献金を強制していたことが明らかになれば不正義は避けられない。が、政治改革を目指しての集金なら「私利私欲」と言い切るのは無理がある。政治にはカネがかかる。その現実を捨象しての「正義」は表層的なお題目でしかないからだ。
小沢氏の師事した田中角栄氏が単なるカネの亡者でなかったことは、その後、さまざまな書籍で浮き彫りになりつつある。ロッキード事件当時、検察は「正義」だった。いきおい、田中氏には「不正義」のレッテルが張られた。だが、その見立てが正しかったのかどうか、まだまだ検証が必要だ。
リクルート事件もまた再検証が迫られている。江副浩正氏の近著『江副浩正の真実』(中央公論新社)は衝撃的な本だ。地検特捜部が、どのように自分たちに都合のいい調書を作成していくのか、その実態は佐藤優氏の『国家の罠』(新潮社)があますことなく描いた。しかし、江副氏の体験談はさらに詳細である。それも驚きだったが、何より私が愕然としたのは、「リクルート事件は新聞がつくり、地検は事件として立件せざるをえなかった」という告発である。
この事件をめぐる報道は、新聞社の社会部記者には代々、受け継がれる、調査報道中の調査報道。『朝日新聞』記者のジャーナリスト魂が、竹下登内閣を崩壊させ政治改革に結びつけたとして、高い評価を受けた「真の特ダネ」なのだ。だが、江副氏の記述が事実なら、本来なら事件にならないことを事件にしてしまった一番の責任はメディアにある。「正義の味方」という錦の御旗を背負っている地検は、報道にあおられ、事件をつくらざるをえなかったという構図だ。
ロッキード事件以降、「角栄・金丸・小沢」対特捜部の戦いは、ある種の正義と正義のぶつかりあいだ。ではどちらが「不正義」なのか、最後の判定を下すのは、マスコミではなく主権者たる私たち市民・国民である。(北村肇)
2010 年 1 月 29 日
9:00 AM
|
カテゴリー: 一筆不乱
| by
北村 肇 |
タグ:増税, 民主党, 消費税
「灰色」の美しさや魅力に気付いたのは、生をうけ半世紀たったころのことだ。それまでは「白か黒」しかなかった。新聞記者時代は「断定魔」と揶揄された。何でも白か黒でないと気がすまない。「善は善」「悪は悪」。別に牽強付会で言い張ったつもりもなく、本人としては至極、当然の生き様だった。
特にきっかけがあったわけではない。「生」も「社会」もデジタルではなくアナログなんだと、学生時代の講義などすっかり忘れた不勉強の輩がようやく実感。そんなとき、世界には純粋な白も黒もないこと、そう思いこむことは逆に危険であるという真実に行き着いた。遅すぎた目覚めと、われながら気恥ずかしい。
消費税論議が延々と続いている。いつまでたっても結論が出るようで出ないのは、「政争の具」となるばかりで、まっとうな議論にならないからだ。民主党は昨年の総選挙の際「4年間は消費税を上げない」と公約した。複数の同党関係者は「党内では異論もあったが、選挙のためならやむなしとして表面化しなかった」と明かす。
『東京新聞』の報道(1月15日朝刊)によると、菅直人財務相は「今後、消費税の引き上げ議論に入る可能性はあるか」との質問にこう答えている。
「鳩山由紀夫首相も表明しているが、四年間は引き上げない。上げる時には選挙で問うことが前提だ。この一年は徹底的に無駄を削り、やりきったという時に福祉分野を維持するにはどうかという議論は必要になってくる」
同紙記事の見出しは「菅氏、消費税上げ言及」となっている。取材時のニュアンスとして「次の衆院選では触れてくる」と記者が感じたためだろう。すでに仙石由人行政刷新担当相は「議論すべき」と公言しており、民主党が少しずつ軸足を動かしているのは間違いない。
消費税に限らず、税金問題は「国家論」が基盤となる。どのような社会体制を目指すのかという本質的な議論が先なのだ。北欧のように、高い税金と豊かな福祉政策で一定の成功を収めている国は存在する。消費税にしても、仮に税率が上がったとしても、結果的に社会的弱者の救済につながる道もありうるかもしれない。単純に黒白をつけるテーマではない。本質的議論さえ経れば、美しい灰色決着も存在するだろう。ただし、すべての前提が憲法25条であることは言うまでもない。(北村肇)
2010 年 1 月 22 日
9:00 AM
|
カテゴリー: 一筆不乱
| by
北村 肇 |
ブリキの玩具。結構、長い間、静かな人気を保っている。私にとっては、その手触りがなつかしい。触れたとき、最初は冷たいのにじわりと温かみを増してくる。体温が伝わるからだ。ネジを巻く。カタカタと動き出す自動車。ギュッギュと泳ぎ始める金魚。私の体温をもったそれらは、確かに私の分身である。
かといって、パソコンゲームを頭から否定する気はない。子どもや若者が熱中するだけの魅力があるのだろうし、私自身、いい歳をしてインベーダーゲームにはまったこともある。ただブリキの玩具とは違う。パソコンはそれ自体が完結した機械だ。ある意味、人間の介入は許さない。ロールプレイゲームにしても、何かを育成するゲームにしても、所詮は計算されたソフトの枠内のことでしかない。パソコンが人間の分身になることはありえない。体温の伝わることはなく、せいぜい、マウスが温まるくらいのことである。
そもそも1950年代や60年代の遊びといえば、肉体の触れあうものがほとんどだった。鬼ごっこ、相撲、野球、缶蹴り……互いの体温や息づかい、命の鼓動が伝わり、ときにはぬくもりを、ときには怒りを感じた。そして、そこに何が生まれるのかわからない、ドキドキ感があった。
閑話休題。かつて、新聞やテレビ報道にはブリキの肌触りがあった。活字や映像から体温の立ち上ることがあった。権力者の横暴には断固として怒り、心温まる市井の「いい話」には涙をこらえながら書く。そんな記者の体温が、読み、見る側にも自然に伝わってきた。でも、いまは、ほとんどない。事象・現象が無味乾燥な形で提示されるばかりだ。
新年を迎えても、世界では「不自然死」が絶えない。「自爆テロで数十人死亡」といったニュースが、あたかもとるにたらない出来事であるかのような扱いで報道される。死者に何らの思いを抱かずに書かれた記事が、読者・視聴者の心に届くはずもない。いつしか多くの市民にとって、他国での戦争は、遠い世界の事象であり、手触りのない、その意味ではゲームの中のことと同一化していく。
しかも、その一方で、マスコミ報道には、時折、権力の思惑という味付けがなされる。正義の味方という立ち位置からの、怒りによる政治批判ではなく、なにがしかの自己利益に基づいた報道。「小沢疑惑」キャンペーンや、一部の新聞・テレビによる民主党政権批判にも、その匂いを感じる。こんな時代、ジャーナリストとして自らに言い聞かせる。大切にしよう――涙、笑い、怒り、ぬくもり、そして愛。(北村肇)
2010 年 1 月 15 日
5:15 PM
|
カテゴリー: misc
| by
北村 肇 |
新聞の「社説」は読まれていない。三十年の記者経験に基づき断言する。だが、その新聞社の立ち位置を知るには「社説」を読むのが手っ取り早い。本来、編集権は何ものからも自由であるべきだ。しかし遺憾ながら、ほとんどの新聞社では経営側が編集権を握っている。だから、企業として政治権力とどういう間合いをとろうとしているのかが、「社説」を読めば大体、わかるのである。
さて二〇一〇年元旦の「社説」。民主党政権の評価、とりわけ日米関係のあり方が中心になると予測していた。案の定、「提言する新聞」を標榜する『読売新聞』は、かなり露骨に鳩山連立政権をたたいた。「連立政権維持を優先する民主党の小沢幹事長らの思惑により、日米同盟の危機が指摘される事態になっている」と断じたうえで、「言うまでもなく、日米同盟は日本の安全保障の生命線だ」「それなのに、東アジア共同体構想を掲げ、米国離れを志向する鳩山首相の言動は極めて危うい」「米国との同盟関係を薄めて、対等な関係を築くというのは、現実的な選択ではない」とたたみかける。渡邉恒雄氏が率いる新聞社だから当然と言えば当然だが、次の文章にはさすがにぞっとした。「民主主義、人権尊重、思想・信条の自由という普遍的価値を共有するアメリカとの関係強化を、アジア・太平洋の平和と安定の基礎に置く視点が不可欠である」。これは、憲法の否定する集団的自衛権の行使を認め、米国の軍事的世界戦略に日本も積極的に加わるべきだという主張にほかならない。
『読売』のまえのめりに比べれば、『産経新聞』の「忘れてならないのは、日本の安全だ。米軍の抑止力がこの国の平和と繁栄を維持してきた。その抑止力が損なわれた場合、空白が生ずる。乗じる勢力も出てくる」はまだ、穏やかな感じすらする(「論説委員長の「年のはじめに」)。
もっとも愕然としたのは、『朝日新聞』の 「より大きな日米の物語を」と題した「社説」だ。「北朝鮮は核保有を宣言し、中国の軍事増強も懸念される。すぐに確かな地域安全保障の仕組みができる展望もない」とあれば、どう読んでも、アジア重視の鳩山外交に対する批判だ。そしてこんな一文が目に飛び込む。「『アジアかアメリカか』の二者択一さながらの問題提起は正しくない。むしろ日本の課題は、アジアのために米国との紐帯を役立てる外交力である」。いかにも”朝日的”なもってまわった言い方だが、要は、集団的自衛権の行使により米国と連携しアジアに対する軍事的プレゼンスをもとうということだ。「『朝日』の『読売』化」が言われて久しいが、ここまできたかの感がある。
『毎日新聞』は主張したいことがよくわからないので取り上げようがない。
全国紙の現状に寒々とする中で、『琉球新報』の「社説」は清々しかった。「核を持たない日本の安全を、米国が自国の核で保障するという考え方は、もっともらしく聞こえるが、核攻撃を誘発することにもなりかねない。ひとたび戦いが始まれば、間違いなく住民は巻き込まれる。被爆の惨劇が再来しない保証はどこにもないだろう」。その通りだ。主見出しは「軍の論理より 民の尊厳守る年」、サブ見出しは「犠牲の上に立つ『同盟』なし」である。
2010 年 1 月 15 日
9:00 AM
|
カテゴリー: 一筆不乱
| by
北村 肇 |
タグ:小沢一郎
不思議な政治家だ。小沢一郎氏には権力者特有の生臭さを感じない。若くして自民党幹事長に就任、その後は”壊し屋”の異名通りに政界を揺さぶり続けた。政権奪取した今は、「鳩山由紀夫氏が消えても民主党は残るが、小沢氏なしでは崩壊する」とさえ言われる。これほどの力を持ちながら、どこか淡色感がある。
岩手県出身の小沢氏は自らをアテルイになぞらえる。平安時代初期、蝦夷の軍事指導者アテルイは朝廷軍と戦い、最後は処刑された。つまり小沢氏は、本心はともかく、「賊軍の立ち位置を失っていない」と公言する数少ない政治家といえよう。敗者の美学に憧れる者は生臭さを嫌う。彼もその一人なのかもしれない。批判すべき点はいくらでもあるが全否定する気になれないのは、その立ち位置にある。
本誌05年1月21日号、編集委員本多勝一による小沢インタビューの一部を再録する。
本多 小沢さんはアテルイの末裔だそうですね。その意味では、日本国憲法の1条から8条あたりに対して違和感があるのかと思っていたのですが(以下略)。
小沢 僕らの先祖は130年前の明治維新のときも賊軍の汚名をきせられた。賊軍だから靖国神社にも祀られていない。それにもかかわらず、今も勤王の志を抱いているのだから、たいしたものだ。先祖はその昔「俘囚」と呼ばれ、大和朝廷に最後まで反抗した。アテルイは1200年前だ。僕は、末裔として反骨精神が強いと思うが、ものの考え方は論理的、合理的だ。
そういえば、小沢氏が師事した田中角栄氏にも、どこかしら庶民の反骨精神を感じた。その精神は歪んだ形で大邸宅や錦鯉につながっていき地に墜ちることになる。しかし、ある時期までは「今太閤」として圧倒的な国民人気を誇っていた。
それに比べ、小沢氏は常に不人気な政治家であり続けている。田中氏と異なりマスコミのうけも悪い。確かに、あのぶっきらぼうな態度はいただけない。記者も人間だ。むろん望ましくはないが、不快な印象を持つと筆に影響するのが現実である。とはいえ、新聞・テレビの報道は目に余る。今回の一連の事件でも、検察のリークと思える記事の氾濫は常軌を逸している。
国策捜査ならぬ国策報道が「賊軍」を追い込む――ロッキード事件もしかり、鈴木宗男氏の事件もしかり、相も変わらぬいつもの図式。(北村肇)
2009 年 12 月 25 日
9:00 AM
|
カテゴリー: 一筆不乱
| by
北村 肇 |
タグ:1Q84, 村上春樹
作家は錬金術師だ。原料(事実)がなければ何も生み出せない鋳造工のジャーナリストとは異なる。事象として立ち上がっていなくても社会に流れる見えない風。それを感知し、フィクションの作品に仕上げる。読者はそこに「真実」を発見し、感動し、社会や自分を見つめ直し、時には人生の指針すら手にする。
今年のベストセラーは『1Q84』(村上春樹著)だった。文学作品が売り上げトップになるのは久しぶりだ。錬金術師としての村上を評価する一人として、何を見せてくれるのかわくわくして読んだ。結果はがっくりだった。舞台装置はともかくとして「オウムなるもの」に取り組んでいるのはわかる。だがそこから先があいまいすぎる。
パラダイム変革期に起きた象徴的事件ながら、オウムの解明は全くされていない。麻原彰晃が逮捕され死刑に処されたからと言って、極論すれば、それは事件の本質に関わりのないことだ。たとえば私自身、煩悶し結論の出ない疑問がある。信者が「ポアは対象者の救済」と確信していたなら、果たしてそれは殺人として裁けるのか――。
人類が種を保存し続けてこられたのは、救済者としての「神」を発見あるいは発明出来たからにほかならない。だからこそ、「神」を殺した理性が実は戦争の世紀を生んだ現実を前に、人類は立ち竦むしかないのだ。麻原が救済者となり、そのもとに集ったまじめな青年が「教え」を忠実に守り実行したのは、まさしく世紀末の風景だった。だが「気の触れた男の犯罪」という、矮小化以外何物でもない結末をつけることにより、魂の救済を求める現代人はますます行き場を失った。
このことになぜ文学作品が正面から斬り込まないのか、もどかしかったところに、『1Q84』は登場した。読み進めるうち、当然、神の死んだ時代における魂の救済が描かれると思った。しかし作品は迷走し、破綻。愕然とはしたが、ここは続編を待とうと思っていた。だが高村薫の『太陽を曳く馬』を読んでしまったことで、その期待もしぼんだ。高村作品は、オウムを刑事事件として処理した愚かさに斬り込み、人間存在の深遠さ、そこから目を背けてきた現代社会を鋭くえぐりとっている。これに比べたら、村上は勝算のないまま「この世とあの世の境目」に飛翔し、みじめに落下したとしか言えない。
とにもかくにも09年は、「オウムなるもの」が文学によって本格的に解剖されるきっかけの年になった。来年はどんな作品が登場するのか。前言撤回し、やはり『1Q84』続編にも期待しよう。(北村肇)