「正義」の定義は難しい。何しろ、米国にすればベトナム戦争もイラク戦争も正義となってしまう。だが、「不正義」はそれなりに言葉で表現できる気もする。「『力』によって他者を虐げ、あるいは私利私欲を図る行為」――。この解釈に従ったとき、小沢一郎氏をめぐる東京地検特捜部の捜査は「不正義」だろうか。

 特捜部が「力」を持っているのは間違いない。仮に国策捜査の色合いが濃ければ「他者を虐げ」につながる。しかし「私利私欲」があるとは思えない。では小沢氏はどうか。ゼネコンに献金を強制していたことが明らかになれば不正義は避けられない。が、政治改革を目指しての集金なら「私利私欲」と言い切るのは無理がある。政治にはカネがかかる。その現実を捨象しての「正義」は表層的なお題目でしかないからだ。

 小沢氏の師事した田中角栄氏が単なるカネの亡者でなかったことは、その後、さまざまな書籍で浮き彫りになりつつある。ロッキード事件当時、検察は「正義」だった。いきおい、田中氏には「不正義」のレッテルが張られた。だが、その見立てが正しかったのかどうか、まだまだ検証が必要だ。

 リクルート事件もまた再検証が迫られている。江副浩正氏の近著『江副浩正の真実』(中央公論新社)は衝撃的な本だ。地検特捜部が、どのように自分たちに都合のいい調書を作成していくのか、その実態は佐藤優氏の『国家の罠』(新潮社)があますことなく描いた。しかし、江副氏の体験談はさらに詳細である。それも驚きだったが、何より私が愕然としたのは、「リクルート事件は新聞がつくり、地検は事件として立件せざるをえなかった」という告発である。

 この事件をめぐる報道は、新聞社の社会部記者には代々、受け継がれる、調査報道中の調査報道。『朝日新聞』記者のジャーナリスト魂が、竹下登内閣を崩壊させ政治改革に結びつけたとして、高い評価を受けた「真の特ダネ」なのだ。だが、江副氏の記述が事実なら、本来なら事件にならないことを事件にしてしまった一番の責任はメディアにある。「正義の味方」という錦の御旗を背負っている地検は、報道にあおられ、事件をつくらざるをえなかったという構図だ。

 ロッキード事件以降、「角栄・金丸・小沢」対特捜部の戦いは、ある種の正義と正義のぶつかりあいだ。ではどちらが「不正義」なのか、最後の判定を下すのは、マスコミではなく主権者たる私たち市民・国民である。(北村肇)

消費税論議は、「国家論」を前提にしなくては始まらない

「灰色」の美しさや魅力に気付いたのは、生をうけ半世紀たったころのことだ。それまでは「白か黒」しかなかった。新聞記者時代は「断定魔」と揶揄された。何でも白か黒でないと気がすまない。「善は善」「悪は悪」。別に牽強付会で言い張ったつもりもなく、本人としては至極、当然の生き様だった。

 特にきっかけがあったわけではない。「生」も「社会」もデジタルではなくアナログなんだと、学生時代の講義などすっかり忘れた不勉強の輩がようやく実感。そんなとき、世界には純粋な白も黒もないこと、そう思いこむことは逆に危険であるという真実に行き着いた。遅すぎた目覚めと、われながら気恥ずかしい。

 消費税論議が延々と続いている。いつまでたっても結論が出るようで出ないのは、「政争の具」となるばかりで、まっとうな議論にならないからだ。民主党は昨年の総選挙の際「4年間は消費税を上げない」と公約した。複数の同党関係者は「党内では異論もあったが、選挙のためならやむなしとして表面化しなかった」と明かす。

『東京新聞』の報道(1月15日朝刊)によると、菅直人財務相は「今後、消費税の引き上げ議論に入る可能性はあるか」との質問にこう答えている。

「鳩山由紀夫首相も表明しているが、四年間は引き上げない。上げる時には選挙で問うことが前提だ。この一年は徹底的に無駄を削り、やりきったという時に福祉分野を維持するにはどうかという議論は必要になってくる」

 同紙記事の見出しは「菅氏、消費税上げ言及」となっている。取材時のニュアンスとして「次の衆院選では触れてくる」と記者が感じたためだろう。すでに仙石由人行政刷新担当相は「議論すべき」と公言しており、民主党が少しずつ軸足を動かしているのは間違いない。

 消費税に限らず、税金問題は「国家論」が基盤となる。どのような社会体制を目指すのかという本質的な議論が先なのだ。北欧のように、高い税金と豊かな福祉政策で一定の成功を収めている国は存在する。消費税にしても、仮に税率が上がったとしても、結果的に社会的弱者の救済につながる道もありうるかもしれない。単純に黒白をつけるテーマではない。本質的議論さえ経れば、美しい灰色決着も存在するだろう。ただし、すべての前提が憲法25条であることは言うまでもない。(北村肇)

かつて、新聞やテレビ報道にはブリキの玩具の肌触りがあった

 ブリキの玩具。結構、長い間、静かな人気を保っている。私にとっては、その手触りがなつかしい。触れたとき、最初は冷たいのにじわりと温かみを増してくる。体温が伝わるからだ。ネジを巻く。カタカタと動き出す自動車。ギュッギュと泳ぎ始める金魚。私の体温をもったそれらは、確かに私の分身である。

 かといって、パソコンゲームを頭から否定する気はない。子どもや若者が熱中するだけの魅力があるのだろうし、私自身、いい歳をしてインベーダーゲームにはまったこともある。ただブリキの玩具とは違う。パソコンはそれ自体が完結した機械だ。ある意味、人間の介入は許さない。ロールプレイゲームにしても、何かを育成するゲームにしても、所詮は計算されたソフトの枠内のことでしかない。パソコンが人間の分身になることはありえない。体温の伝わることはなく、せいぜい、マウスが温まるくらいのことである。

 そもそも1950年代や60年代の遊びといえば、肉体の触れあうものがほとんどだった。鬼ごっこ、相撲、野球、缶蹴り……互いの体温や息づかい、命の鼓動が伝わり、ときにはぬくもりを、ときには怒りを感じた。そして、そこに何が生まれるのかわからない、ドキドキ感があった。

 閑話休題。かつて、新聞やテレビ報道にはブリキの肌触りがあった。活字や映像から体温の立ち上ることがあった。権力者の横暴には断固として怒り、心温まる市井の「いい話」には涙をこらえながら書く。そんな記者の体温が、読み、見る側にも自然に伝わってきた。でも、いまは、ほとんどない。事象・現象が無味乾燥な形で提示されるばかりだ。
 
 新年を迎えても、世界では「不自然死」が絶えない。「自爆テロで数十人死亡」といったニュースが、あたかもとるにたらない出来事であるかのような扱いで報道される。死者に何らの思いを抱かずに書かれた記事が、読者・視聴者の心に届くはずもない。いつしか多くの市民にとって、他国での戦争は、遠い世界の事象であり、手触りのない、その意味ではゲームの中のことと同一化していく。
 
 しかも、その一方で、マスコミ報道には、時折、権力の思惑という味付けがなされる。正義の味方という立ち位置からの、怒りによる政治批判ではなく、なにがしかの自己利益に基づいた報道。「小沢疑惑」キャンペーンや、一部の新聞・テレビによる民主党政権批判にも、その匂いを感じる。こんな時代、ジャーナリストとして自らに言い聞かせる。大切にしよう――涙、笑い、怒り、ぬくもり、そして愛。(北村肇)

全国紙と現政権の間合い-元旦の「社説」を読む

 新聞の「社説」は読まれていない。三十年の記者経験に基づき断言する。だが、その新聞社の立ち位置を知るには「社説」を読むのが手っ取り早い。本来、編集権は何ものからも自由であるべきだ。しかし遺憾ながら、ほとんどの新聞社では経営側が編集権を握っている。だから、企業として政治権力とどういう間合いをとろうとしているのかが、「社説」を読めば大体、わかるのである。

 さて二〇一〇年元旦の「社説」。民主党政権の評価、とりわけ日米関係のあり方が中心になると予測していた。案の定、「提言する新聞」を標榜する『読売新聞』は、かなり露骨に鳩山連立政権をたたいた。「連立政権維持を優先する民主党の小沢幹事長らの思惑により、日米同盟の危機が指摘される事態になっている」と断じたうえで、「言うまでもなく、日米同盟は日本の安全保障の生命線だ」「それなのに、東アジア共同体構想を掲げ、米国離れを志向する鳩山首相の言動は極めて危うい」「米国との同盟関係を薄めて、対等な関係を築くというのは、現実的な選択ではない」とたたみかける。渡邉恒雄氏が率いる新聞社だから当然と言えば当然だが、次の文章にはさすがにぞっとした。「民主主義、人権尊重、思想・信条の自由という普遍的価値を共有するアメリカとの関係強化を、アジア・太平洋の平和と安定の基礎に置く視点が不可欠である」。これは、憲法の否定する集団的自衛権の行使を認め、米国の軍事的世界戦略に日本も積極的に加わるべきだという主張にほかならない。
『読売』のまえのめりに比べれば、『産経新聞』の「忘れてならないのは、日本の安全だ。米軍の抑止力がこの国の平和と繁栄を維持してきた。その抑止力が損なわれた場合、空白が生ずる。乗じる勢力も出てくる」はまだ、穏やかな感じすらする(「論説委員長の「年のはじめに」)。

 もっとも愕然としたのは、『朝日新聞』の 「より大きな日米の物語を」と題した「社説」だ。「北朝鮮は核保有を宣言し、中国の軍事増強も懸念される。すぐに確かな地域安全保障の仕組みができる展望もない」とあれば、どう読んでも、アジア重視の鳩山外交に対する批判だ。そしてこんな一文が目に飛び込む。「『アジアかアメリカか』の二者択一さながらの問題提起は正しくない。むしろ日本の課題は、アジアのために米国との紐帯を役立てる外交力である」。いかにも”朝日的”なもってまわった言い方だが、要は、集団的自衛権の行使により米国と連携しアジアに対する軍事的プレゼンスをもとうということだ。「『朝日』の『読売』化」が言われて久しいが、ここまできたかの感がある。
『毎日新聞』は主張したいことがよくわからないので取り上げようがない。

 全国紙の現状に寒々とする中で、『琉球新報』の「社説」は清々しかった。「核を持たない日本の安全を、米国が自国の核で保障するという考え方は、もっともらしく聞こえるが、核攻撃を誘発することにもなりかねない。ひとたび戦いが始まれば、間違いなく住民は巻き込まれる。被爆の惨劇が再来しない保証はどこにもないだろう」。その通りだ。主見出しは「軍の論理より 民の尊厳守る年」、サブ見出しは「犠牲の上に立つ『同盟』なし」である。

小沢一郎氏にはなぜか、権力者特有の生臭さがない

 不思議な政治家だ。小沢一郎氏には権力者特有の生臭さを感じない。若くして自民党幹事長に就任、その後は”壊し屋”の異名通りに政界を揺さぶり続けた。政権奪取した今は、「鳩山由紀夫氏が消えても民主党は残るが、小沢氏なしでは崩壊する」とさえ言われる。これほどの力を持ちながら、どこか淡色感がある。

 岩手県出身の小沢氏は自らをアテルイになぞらえる。平安時代初期、蝦夷の軍事指導者アテルイは朝廷軍と戦い、最後は処刑された。つまり小沢氏は、本心はともかく、「賊軍の立ち位置を失っていない」と公言する数少ない政治家といえよう。敗者の美学に憧れる者は生臭さを嫌う。彼もその一人なのかもしれない。批判すべき点はいくらでもあるが全否定する気になれないのは、その立ち位置にある。

 本誌05年1月21日号、編集委員本多勝一による小沢インタビューの一部を再録する。

本多 小沢さんはアテルイの末裔だそうですね。その意味では、日本国憲法の1条から8条あたりに対して違和感があるのかと思っていたのですが(以下略)。
小沢 僕らの先祖は130年前の明治維新のときも賊軍の汚名をきせられた。賊軍だから靖国神社にも祀られていない。それにもかかわらず、今も勤王の志を抱いているのだから、たいしたものだ。先祖はその昔「俘囚」と呼ばれ、大和朝廷に最後まで反抗した。アテルイは1200年前だ。僕は、末裔として反骨精神が強いと思うが、ものの考え方は論理的、合理的だ。

 そういえば、小沢氏が師事した田中角栄氏にも、どこかしら庶民の反骨精神を感じた。その精神は歪んだ形で大邸宅や錦鯉につながっていき地に墜ちることになる。しかし、ある時期までは「今太閤」として圧倒的な国民人気を誇っていた。

 それに比べ、小沢氏は常に不人気な政治家であり続けている。田中氏と異なりマスコミのうけも悪い。確かに、あのぶっきらぼうな態度はいただけない。記者も人間だ。むろん望ましくはないが、不快な印象を持つと筆に影響するのが現実である。とはいえ、新聞・テレビの報道は目に余る。今回の一連の事件でも、検察のリークと思える記事の氾濫は常軌を逸している。
 
 国策捜査ならぬ国策報道が「賊軍」を追い込む――ロッキード事件もしかり、鈴木宗男氏の事件もしかり、相も変わらぬいつもの図式。(北村肇)

『1Q84』の村上春樹は、「この世とあの世の境目」に飛翔し、落下した

 作家は錬金術師だ。原料(事実)がなければ何も生み出せない鋳造工のジャーナリストとは異なる。事象として立ち上がっていなくても社会に流れる見えない風。それを感知し、フィクションの作品に仕上げる。読者はそこに「真実」を発見し、感動し、社会や自分を見つめ直し、時には人生の指針すら手にする。

 今年のベストセラーは『1Q84』(村上春樹著)だった。文学作品が売り上げトップになるのは久しぶりだ。錬金術師としての村上を評価する一人として、何を見せてくれるのかわくわくして読んだ。結果はがっくりだった。舞台装置はともかくとして「オウムなるもの」に取り組んでいるのはわかる。だがそこから先があいまいすぎる。

 パラダイム変革期に起きた象徴的事件ながら、オウムの解明は全くされていない。麻原彰晃が逮捕され死刑に処されたからと言って、極論すれば、それは事件の本質に関わりのないことだ。たとえば私自身、煩悶し結論の出ない疑問がある。信者が「ポアは対象者の救済」と確信していたなら、果たしてそれは殺人として裁けるのか――。

 人類が種を保存し続けてこられたのは、救済者としての「神」を発見あるいは発明出来たからにほかならない。だからこそ、「神」を殺した理性が実は戦争の世紀を生んだ現実を前に、人類は立ち竦むしかないのだ。麻原が救済者となり、そのもとに集ったまじめな青年が「教え」を忠実に守り実行したのは、まさしく世紀末の風景だった。だが「気の触れた男の犯罪」という、矮小化以外何物でもない結末をつけることにより、魂の救済を求める現代人はますます行き場を失った。

 このことになぜ文学作品が正面から斬り込まないのか、もどかしかったところに、『1Q84』は登場した。読み進めるうち、当然、神の死んだ時代における魂の救済が描かれると思った。しかし作品は迷走し、破綻。愕然とはしたが、ここは続編を待とうと思っていた。だが高村薫の『太陽を曳く馬』を読んでしまったことで、その期待もしぼんだ。高村作品は、オウムを刑事事件として処理した愚かさに斬り込み、人間存在の深遠さ、そこから目を背けてきた現代社会を鋭くえぐりとっている。これに比べたら、村上は勝算のないまま「この世とあの世の境目」に飛翔し、みじめに落下したとしか言えない。

 とにもかくにも09年は、「オウムなるもの」が文学によって本格的に解剖されるきっかけの年になった。来年はどんな作品が登場するのか。前言撤回し、やはり『1Q84』続編にも期待しよう。(北村肇)

『セブン-イレブンの罠』はビジネスホラー!?

思わずヒザを叩いてしまった。
そう、そうなんです。よく言ってくれました。

<その1>「シートン俗物記」のDr-Setonさん

 「自分も勘違いしていたのだが、こうしてセブンイレブン商法を俯瞰してみると、これは小売業ではない。ずっと、えげつない手段を使った商法だ、と思っていたのだが、そうではなく、小売業を装った詐欺なのだ」

<その2>「深町秋生のベテラン日記」 作家の深町秋生さん

「これ(コンビニ商法)は派遣労働の問題よりも根が深いといわざるを得ない悲劇のビジネスモデルなのだ」

<その3>献本させていただいた「5号館のつぶやき」の栃内新先生

「脱サラして、小売店を廃業して、あるいは親の遺産をつぎこんで、コンビニのフランチャイズになろうと思っている方は、まずこの本を読んで再考してみることをおすすめします」

 いずれも弊社刊行『セブンーイレブンの罠』の読後感。さすがにアルファブロガーの指摘は簡潔にしていて要を得ているだけではない。本質をズバリとついている。セブンーイレブン商法は詐欺で、悲劇のビジネスなのだ――。
 ところが、こうした実態はまったくといっていいほど表面化してこなかった。コンビニに関する報道といえば「強盗」くらい。なぜか――。「クライアントタブー」があるからだ。「悪口や批判を報道したら広告を出しませんよ」と、電通を通して新聞社やテレビ局を脅すのである。
「ふざけるな、やれるならやってみろ」と啖呵を切って記事にしたのは、はるか昔のこと。いまや「はい、わかりました」となってしまうのが実態。かくして、さんざん悪さをしながらセブンーイレブン本部だけが「いい気分」に浸り大もうけしていたのである。
 そこで、広告に頼らない『週刊金曜日』がキャンペーンをはったところ、裁判でセブンーイレブンが負けたり、公取が動くやらで、さすがにマスコミも「セブンーイレブンの問題点」を報じるようになった。とはいえ、どこも上っ面をなでるような“コンビニエント”な記事ばかり。それに比べると、手前味噌ながら『セブンーイレブンの罠』は凄い本である。どこが凄いか――。

<その4>再びDr-Setonさんの「シートン俗物記」から

「この本のオビには高杉良氏が「小説化したい想いに駆られる!!」と推薦文を書いているが、この部分はスティーブン・キング絶賛!!でも構わない感じがする。それくらい、市井の人々がセブンイレブンの罠に嵌って底無しの沼に引きずり込まれるかの描写は恐怖を誘う。
これはもう、ビジネスの世界を舞台にしたホラーだ。新ジャンル、ビジネスホラー」

 さて、コンビニの天皇・鈴木敏文氏役にはだれを使おうか。もっとも、そんな度胸のある俳優がいるかなあ?

 敬愛してやまなかったジャーナリストが生前、幾度も同じ事を口にした。「司馬遼太郎は決して偏狭な国家主義者ではない」。いわゆる司馬史観には否定的な私が『坂の上の雲』を引き合いに、日露戦争を肯定する姿勢を批判すると、「エセ愛国者がこの作品を悪利用しているだけ」という反論が返ってきた。

 取材に基づいた事実しか記事にはならないと言い続けた人が、単なる印象論を語るはずがない。といって、こちらも、司馬氏が生前『坂の上の雲』の映像化を拒否していたことくらいしか知らない。そこで、「では、そのことを『週刊金曜日』に書いて欲しい」と頼み、打ち合わせを始めたところで病に倒れ、帰らぬ人になってしまった。

 司馬氏の日露戦争評価について、『坂の上の雲』の一節がよく取り上げられる。
 
「ロシアの態度には弁護すべきところがまったくない。ロシアは日本を意識的に死に追いつめていた」「日露戦争というのは、世界史的な帝国主義時代の一現象であることはまちがいない。が、その現象のなかで、日本側の立場は、追いつめられた者が、生きる力のぎりぎりのものをふりしぼろうとした防衛戦であったこともまぎれもない」
 
 この「避けられない戦争であった」という史観に対し、たとえば大江志之夫氏は『日露戦争スタディーズ』(紀伊国屋書店)の中で、こう書いている。ちなみに大江氏は東京教育大学時代の私の恩師で、緻密な研究者である。

「ロシア皇帝の韓国を日本の勢力圏として承認するという勅命も、満州の大部分からロシアの政府も軍も手を引くという提案も、日本の政府に伝えられることなく、日本は主観的な危機感だけから、あの大戦争を決定し、実行に移してしまった。……ロシア陸軍は対日戦争の準備も研究もしていなかった」

 最近では、和田春樹氏が「ロシアは露日同盟を検討していた」という史料を発掘した。日露戦争が「避けられた戦争」であるのは、ほぼ裏付けられているようだ。ただ、司馬氏が新聞連載をしていた当時、どのような史料を把握していたのかはわからない。
 
 いずれにしても、『坂の上の雲』が、「列強に打ち勝った輝ける歴史の称賛」に利用されているのは間違いない。来年は「日韓併合百年」にあたる。NHKの『坂の上の雲』が政治的ドラマではないと、誰が信じるだろうか。(北村肇)

沖縄県民はもちろん本土人も「米国属国」の被害者であることを忘れてはならない

「沖縄」は、「革新的知識人」を標榜する者にとってリトマス試験紙だ。沖縄県民の痛みや怒りがわかりますかと問われたとき、深く肯いたうえで加害者の立場として発言する。米軍基地の75%を押しつけたまま本土人は見て見ぬふりをしている、その一員としての懺悔が「知識人」として最低限の条件である。

 鳩山新政権は、このことを悪利用した。沖縄に寄り添ってこなかった事実を踏まえ、反省し、日米関係の見直しにまで踏み込む。「加害者」としてのしおらしい態度を見せつつ、自民党政権からの大転換を装ったのだ。しかしその後の推移を見る限り、現時点では、みせかけにすぎなかったとしか言えない。

 最重要課題になっている普天間基地移設問題。前政権の方針を踏襲し、辺野古沖移設を直ちに決定すべきという北沢俊美防衛相や、嘉手納基地への統合を主張する岡田克也外相は論外だが、とりあえず鳩山首相は「沖縄の意向を最優先」とのポーズをとっている。オバマ大統領に釘を刺されても踏ん張ったという姿勢をみせるため、1月の名護市長選、あるいは6月の参議院選までは結論を出さない可能性もある。このまま拙速な判断をすることなく、県外移設への道を模索するのなら、それなりの評価をしたい。

 しかし、よしんば県外移設が実現したとしても、それが即「沖縄問題」の解決につながるわけではない。基地撤去後の沖縄をどうするのか、その戦略がなければ本質的解決はありえない。本誌今週号で詳述したが、沖縄の基地問題には常に地元建設業界の利権がからむ。当然といえば当然。沖縄県の経済が基地の上にのっている事実は隠しようがないのだ。だから、そこに利権が生まれるのは避けようがない。だが、政治家や官僚だけではなく「革新的知識人」の中にも、この実態を見て見ぬふりをする人がいる。「被害者」には清く美しくあって欲しいという、身勝手な気分があるからではないか。

 そもそも本土人は、自らが加害者であるとともに被害者でもあるという事実に目を向けなくてはならない。沖縄の基地がすべて本土に移転すれば、基地問題は全国に拡散する。つまるところ、米国支配から脱しない限り「日本人」はすべて被害者なのだ。偏った「加害者の立場」は、むしろ歪んだ「上から目線」につながりかねない。差別された者がより差別された者をあわれむような態度は、厳に慎むべきだ。でないと「真の敵」を見失うことにもなる。「沖縄県民と本土人はともに米国属国による被害者である」という実態に基づいた闘いも重要ではないだろうか。(北村肇)

「バラク・ユキオ」と呼び合う茶番でわかる日米関係の現状

 バラクにユキオ。また始まった。ロン・ヤス以来、もう笑ってしまうしかない。だが、こんな茶番が実は怖い。おちゃらけた雰囲気が現実を消すからだ。

 イラク戦争を我先に支持したのは、誰あろう日本の首相、小泉純一郎氏。その小泉氏がブッシュ大統領とキャッチボールするパフォーマンスは効果抜群だった。陰惨で陰湿で仕組まれた侵略戦争、それに加担する日本というおぞましい構図を、トップ同士のお遊びは軽い笑いでまぶした。このしたたかな演技を鳩山由紀夫氏はどう見ていたのか。米国からの自立、対等な外交を目指すと公言しているのだから、当然、苦々しく感じていたはず。なのに、またまたバラク・ユキオである。

 ロナルド・レーガン大統領が中曽根康弘首相を「ヤス」と呼んだ1985年、米国にとり日本は「相手にする国」だった。むろん、それは自国の利益のために利用する価値があるという意味だ。「ロン・ヤス」に気をよくした中曽根氏は、日本を米国の浮沈空母にしただけではなく、市場開放を進め米国資本が日本の資産をかすめ取る手助けをするなど、米国にとってはこのうえなく使い勝手のいい首相となった。

 それから24年、日米関係は変質した。オバマ政権は日本を、対等どころかまともに付き合う国ともみていない。来日が1日遅れたのも、都内での講演がオバマ氏にしては珍しく「歴史的演説」とはほど遠い、あたりさわりのない内容だったのも、ジャパン・ナッシング(無視)の証しである。

 本誌今週号で霍見芳浩ニューヨーク市立大学教授が述べているように、米国での報道は「訪中」一辺倒で、米国民の多くは訪日の事実さえ知らないという。いまや、米国にとって外交の最重点は「対中関係」であり、日本は完全な支配下にある子会社にすぎない。今回も、親会社の社長・バラクが子会社社長をユキオと呼び、社員(日本の市民・国民)向けにほんの少しヨイショしただけのこと。言うまでもなく、この茶番はバラクにとってもユキオにとっても損ではない。

 首脳同士が信頼関係を結ぶのは結構。しかし、そもそもファーストネームで呼び合ったからといって結べるものではない。そんなこと子どもだってわかる。いや、これは子どもに失礼。子どものほうがよりわかると言い換えよう。二人は、裸でぶつかってこそ親友が生まれるという事実を知らない、あるいは知っていても無視する「バカな大人」の典型ということだ。(北村肇)