どこでもかしこでも聞こえてくるのが「このままでは日本はだめになりますよ」という嘆き節。そこには「自虐的でひ弱な”我が国”への叱咤」と「新自由主義に毒された”この国”への危機感」という違った意味が込められる。前者は日清・日露戦争時代の明治回帰を主張し、後者は米国からの自立を求める。
「韓国併合」から百年。当時も今も「韓国を西欧列強の手から守り民主化するにはこれしかなかった」という説が根強くある。明治回帰者が夢見る「強くて正しい日本」。だが、これは、米国が日本を抱きかかえて占領したときの論理と基本構造は同じだ。ベトナム戦争やイラク戦争の主要な理屈も「共産圏や独裁者から守るため」だった。
どんなきれいごとを並べようと、他国への侵略目的は権益確保以外の何物でもない。正義の占領や正しい併合など存在しようがないのだ。最近の研究によれば、日露戦争はロシア側が仕掛けたとみられる。日本側は政府も元老・山県有朋も開戦には消極的だったようだ。しかし、朝鮮半島を支配下に置きたいという野望は一貫して変わらなかった。その目的を果たすために「満州利権はロシア、朝鮮利権は日本」という外交に出たにすぎない。日清戦争もまた、朝鮮利権が根底にあった。韓国の強制併合は「明治・日本」にとってまさに長年の夢だったのだ。
だが、「自虐史観」批判を展開する人たちにとっては、植民地政策はまっとうで避けられない政策だったということになるのだろう。だから、日本が米国属国化(植民地化)している現状については反旗を翻さないのかとうがった見方をしたくなる。菅直人首相が韓国併合百年に関する談話を出したことに対し「いつまで謝罪し続けるのか」と怒るなら、なぜ米国に「ヒロシマ・ナガサキを謝れ」と主張しないのか。「我が国」の尊厳を大切に思うなら、大いに矛盾しているのではないか。
この国で生まれ育ったのだから、「日本」を誇りある国にしたいと考えるのは、保守も革新もなく当然だ。だからこそ私は、軍事力で他国に攻め入るくらいなら、ひ弱でも凛とした国のほうがはるかにましと思うのだ。植民地化に走った過去の歴史を深く反省し、被害者に謝罪するのはその一歩である。何かにつけて優勝劣敗思想にこりかたまる米国に、対等の立場で物を申すのが次の一歩だ。
そして、何よりも、憲法9条、25条の具現化こそが、確かな日本再生につながる。(北村肇)
2010 年 8 月 20 日
9:00 AM
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カテゴリー: 一筆不乱
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北村 肇 |
タグ:柴田トヨ, 辻元清美
98歳の詩人、柴田トヨさんの作品集『くじけないで』がベストセラーになっている。詩集としては異例のヒットだ。生きることのしんどさは十分、わかっている、でも生きることはすばらしいのよと、無意味な飾りを施さない言葉で、淡々とおだやかに語りかける。しかも、浮世離れすることなく、常に「社会」を真っ直ぐに見据えている。世代を超えて人々の胸をうつのは肯ける。
歳をとるのも悪くないなと実感したのは50歳を過ぎてからだ。柴田さんの詩に触れ、さらに一歩進んで、歳をとることの幸せを感じるようになった。窓から入る陽の光やそよ風を手ですくいとるなどの芸当は、若いころにはとてもできなかった。確執の対象でしかなかった親に素直になれるのも「老い」のおかげだ。
本誌今週号で登場願った辻元清美さんに初めて会ったのは20年以上前。若さが全身を覆っていた。土井たか子さんの勧めで政治家になり、根っからの努力家ということもあり、めきめきと頭角を表す。だが、逮捕、議員辞職と奈落の底に。さまざまなデコボコ道を歩んだ末、連立政権では国交省副大臣という要職に就く。インタビューの中で「私は調整型」と幾度も繰り返した。確かに、激動の永田町を生き抜いたいまは、良きにつけ悪しきにつけ老成化したようにみえる。「社民党離脱」も、本人なりにしっかりした計算に基づいての行動なのだろう。
当然、賛否両論ある。現時点では、私も納得のできないことが多い。社民党の古色蒼然とした労組頼りの体質には違和感がある。しかし、それを打ち破ろうとした土井さんに請われて旧社会党に入ったのではなかったか。辻元さんに対する周辺の期待もそこにあった。野党では現実を動かせないという考え方にも賛同しかねる。政治の役割とは、現実を理想に引き上げることにある。浅薄な現実主義がマイノリティの排除につながりかねないことは、誰よりも辻元さんが知っているはずだ。
とはいっても、彼女を孤軍奮闘の立場に追い込んでしまった責任は多くの人間にある。市民運動的立場で動いていた議員はひとりふたりと社民党を去った。体質を変えようにも、現実を理想に引き上げようにも、一人ではどうしようもない。その苦境を乗り越える絶好の機会が連立政権発足でもあったのだ。
老成化が「命」への感度を高めることにつながるのか、単なる根回し上手にとどまるのか、しばらくは政治家・辻元清美を凝視したい。(北村肇)
「ヒロシマ・ナガサキ」から6年半後に私は生まれた。身の回りの大人に戦争の恐怖やばからしさをさんざん聞かされた。だが、原爆の悲惨さについては、とんと記憶がない。下町だから東京大空襲の話題が大半を占めたのは仕方がない。とはいえ、地球レベルでは「20世紀最大の出来事」といわれる惨禍が、強い印象をもって語られなかったのは不可思議だ。
米国の日本占領政策の主要な柱に「加害者すりかえ」があった。戦争を引き起こしたのは暴走した軍部であり、天皇も一般国民も被害者だ。米国はその被害者を一刻も早く救うため原爆投下に踏み切った――。史上最悪の戦争犯罪は意図的に意味を変質させられ、日本はあたかも「解放者」として米国を受け入れたのである。
こうした事実をみたとき、「ヒロシマ・ナガサキ」は初めから風化させられる運命だったのではないかと考えてしまう。あまりに巨大な事象はその衝撃の大きさにより、かえって現実離れしてしまうということはある。だが、たとえば、首相就任を目前にした鳩山一郎氏が公職追放されたのは、原爆投下に批判的だったからとも言われる。日本統治のため、米国が「ヒロシマ・ナガサキ」の本質から目をそれさせようとしたのは確かだろう。
オバマ米国大統領のプラハ演説をきっかけに、「核」なき道への希望が高まったようにもみえる。オバマ氏が、米国大統領としては初めて広島・長崎を訪れるのではないかとの声も永田町では出ている。だが、私は楽観的な気持ちにはなれない。いま世界に現存する核兵器は2万3000発。人類を何度か滅ぼすことが可能な数だ。最大の所有国は米国であり、唯一、核兵器を使用した国でもある。もし、世界から核を一掃するなら、まずは米国が実践するしかない。
さらに言えば、「核」なき道は、最終的に戦争なき道につながるはずだ。しかし、米国はイラクからもアフガニスタンからも撤退せず、オバマ大統領は、アフガニスタンではさらなる軍事力強化を図ろうとしている。はっきり言おう。米国を信用できないのだ。
日本はいつまで、こうした加害者の「核の傘」に覆われているのか。核なき世界への第一歩は、わずか65年前、現実に原爆を落とされた日本こそが、「核兵器を廃絶せよ」と米国に迫ることである。その権利はあるはずだ。しかし、一方で、対米自立を唱える識者から「日本は自前の核を持つべき」という論調が目立ち始めた。米国と対等関係を結ぶことが核武装に向かったのでは、これ以上の矛盾はない。(北村肇)
2010 年 7 月 30 日
9:00 AM
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カテゴリー: 一筆不乱
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北村 肇 |
「心頭滅却すれば……」と言うが、「頭」はともかく「心」のありようで確かに「暑さ」の感じ方も変わってくる。気分が前向きのときは、ギラギラした陽光が、心身に染みついたカビを一掃してくれるようで、全身を開放したくなる。じめじめした梅雨よりは余程いいやと、したたり落ちる汗がちっとも苦にならない。
太陽の真下をイメージし、不快なこと、許せないこと、恨みごとを取り出しては溶かしてみる。あとに残るのは、清々しい気分と慈しみの心。ここまでは完璧だが、所詮、完璧ではありえないのが人間の性。数時間後にはすでに怒りや憎しみに侵される。やれやれだが、でも、時折、カビの一掃を図るのは悪くない。
参院選に揺れた永田町。表面上は夏休みに入るが、水面下では、秋の民主党代表選に向け、国会議員には暑すぎる季節が訪れる。まあまあ、そんなに焦らず、ここはじっくりと自省してみてはどうか。特にお勧めなのは、「権力」という名のシミを日光にさらし、自分という素裸の「命」に向き合うことだ。
誤解されるかもしれないが、私は「権力」を全否定はしない。何事においても事態を収拾したり、推進したりするためには「力」が必要となる。有無をも言わさず、反対を押し切って信ずる道を切り開かざるをえないときもある。だからこそ、権力を持つ者は孤独に、そして真摯に、私利私欲を極限まで遠ざける姿勢を持ち続けなければならないのだ。
翻って、いま、この国の為政者の多くには権力者の資質も資格もない。沖縄の米軍基地問題は、米国、ゼネコン、国会議員、官僚といった、力を持つ者の欲が背景にある。消費税率アップは、輸出産業を主とした大企業の欲が見え隠れする。
さて、永田町では、民主党、自民党の「大連合」が再び、ささやかれている。参院選の結果、民主党は絶対的な第1党の座を滑り落ちた。いわば第1・5党と第2党が手を結ぼうというわけだ。実現したら、かつてない巨大な権力党が誕生する。この欄でも触れたが、日米軍事同盟の強化という点で両党の違いはなく、辺野古沖への米軍基地建設は簡単に実現してしまう。消費税率アップは、もともと自民党が言い出し、民主党が相乗りした。これもまた、他党が反対しても国会を通ってしまうだろう。
私利私欲に走る国会議員は「絶対権力」に大きな魅力を感じる。大連立が抱える落とし穴もそこにあるのだ。民意無視とはつまり、人間性喪失の政治でもある。(北村肇)
人はそんなに強い生き物ではない。だれかにもたれかかり、ようやく息ができる。でも、これは意外に「強い」とも言える。みんながそれぞれもたれあえば、結構、頑丈な構造物になるからだ。このことを知ってか知らずか、「自己責任」を押しつけようとした面々がいる。「人に頼るな。自分で努力しろ、戦え」。
こうした、新自由主義に凝り固まった連中の言葉には裏がある。「人に頼るな」には「国に頼るな」の意味もこめられているのだ。かくして格差社会が作り出され、そこでは、「悪いのは自分だから」という自己批判に追い込まれた人々が、国からも社会からも見捨てられた気分に陥り、漂流を余儀なくされる。
国の主人公が市民であるのは論をまたない。当然、私たちには国に頼る権利がある。だが、悪知恵のきく国は、「だったらお上の命令に従え」とつけ込んでくる。冗談ではない。安心して頼るためには「相手が裏切らない」ことが前提だ。その信頼感がいまの「日本国」にはない。もたれた途端にすっと避けられたのでは、たまったものではない。ただ、矛盾するようではあるが、自分たちの社会は自分たちでつくるという意識も一方で必要だ。国会に丸投げしていたのでは、いつまでたっても暮らしやすい社会は実現しない。
本誌今週号「参議院選挙の連続特集4」は、NGOで活動する人たちから「政権に何を求めるか、自分たちでどう社会を変えていくか」の声を集めた。昨秋に政権交代を実現したのは、有権者の「力」である。参院選で菅直人政権に待ったをかけたのも有権者の「力」。だが、マスメディアは単純に、政党の勝った負けたしか報道しない。
いまの新聞・テレビに決定的に欠けるのは、「市民の視点から」という姿勢だ。マスメディアが「主人公」としているのは、常に国会議員であり官僚であり、一部の知識人と称される人間だ。国家を直接、運営するのが議員、官僚であるのは当然。しかし、社会を動かすのは国家機関だけではない。市民の意志が大きなウエイトを占める。このことへの思いが新聞・テレビには希薄すぎる。
「小さな政府」を信奉する新自由主義者の根底にある発想は「競争」だ。民間企業の競争に任せれば、政府の持ち出しは少なくなり、勝ち組企業から上がってくる税収も増える――。労働者の使い捨てや格差・貧困社会を生み出す負の面はすっかり捨象されている。市民が求めるのは、競争社会ではなく、信頼の社会だ。みんながもたれあえる、しなやかで強い社会こそが「真に豊かな国」につながる。(北村肇)
2010 年 7 月 16 日
9:00 AM
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北村 肇 |
タグ:参院選, 新自由主義
参議院選の投票率57.9%。ワールドカップ・パラグアイ戦の瞬間最高視聴率は64・9%。この”落差”を意外と思う人は少ないだろう。居酒屋でも電車の中でも「本田がどうのこうの」「岡田監督がどうのこうの」という会話は聞こえてきても、「菅民主党対谷垣自民党」はおよそ話題になっていなかった。「自民党勝利」も余韻をもたらすことはない。国会は“ねじれ”により混乱し、自民党の存在感は多少増すだろう。だが、谷垣禎一自民党総裁が岡田武史監督のように名将の称号を得ることは考えにくい。そもそも市民の永田町に対する関心が薄いのだ。
有権者の”シラケ”はいまに始まったことではない。だがその質は明らかに変化している。「失われた20年」以前は「この国は何とかなる」という安心感がどこかにあっての投票棄権が多かった。最近の選挙は違う。「現状を変えたい」と託した相手に幾度も裏切られ、そのたびに別の「誰か」を求めてさまよい、また裏切られる。
政権を壊しても壊しても、何も変わらない――これは避けられない運命だ。閉塞状況にあえぐ人々が壊したいのは「既得権者」。しかし、政権交代は、既得権者から別の既得権者に「力」が移るだけであり、本質は何も変わらないのだ。今回の参院選で民主党が惨敗した最大の理由は「消費税」そのものではない。「消費税」を持ち出した菅直人首相のふらつきぶりにがっかりした有権者が多かった。党首討論を回避する、支持率が下がった途端に言い訳をとうとうと述べる。これらは、昨年の総選挙で、市民がレッドカードを突きつけた自民党の体質そのものだった。つまりは自己保身=既得権保持の姿勢である。
民主党が勝手にずっこけ、自民党に「参議院第一党」がころがりこんだ。とはいえ、自民党に政権奪取の道筋が見えたわけではない。比例で民主党に及ばないということは、政党支持率では依然として第二党ということだ。ある意味で、まだ民主党への期待は残っている。菅直人首相は見限っても民主党は捨てていない。となれば、9月の代表選が大きなポイントになる。新たな「表紙」への動きが表面化するのは避けられない。
しかし、それもまた、既得権のたらい回しに終わればシラケを生むだけだ。おそらく今度は、「ぶれない」「強い(と見える)」印象のトップを選ぼうとするだろう。残念ながら、そこには既得権者を根底からぶっ壊す政策論争が起きるとも思えない。むろん、自民党も、躍進したみんなの党も同じことだ。では、どうしたら、この隘路を抜け出し日本は再生できるのか。結局のところ、新自由主義の破壊しか道はない、私にはそう思える。そのための政界再編なら大歓迎だ。(北村肇)
2010 年 7 月 12 日
1:11 PM
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タグ:参院選, 菅直人
<一筆不乱 参院選特別版>
自民党の谷垣禎一総裁は満面の笑みを浮かべながら、何度も指で「一番」をつくってみせた。改選議席で「参議院第一党」になったのは事実だが、浮かれている余裕はあるのか。今回も比例では民主党に差をつけられた。たまたま敵失があったため「勝利」しただけで、「再度、政権についていい」と有権者のお墨付きを得られたわけではない。
一方、民主党が惨敗した理由は、各メディアが報じるような「消費税」にあるとは思えない。もしそうなら、先に「10%」を打ち出している自民党が勝つことはありえないし、消費税そのものに断固、反対している共産党や社民党の票がもっと増えてしかるべきだ。敗北したのは「菅直人首相」にほかならない。
「小泉郵政選挙」以降、国政選挙で勝利するための肝は、いかに敵を作り出すかにあった。小泉純一郎氏は自民党“守旧派”を既得権者と断じ、「郵政反対派=守旧派(反改革派)=敵」となった。多くの有権者はこの敵にノーをつきつけ、小泉氏は圧勝した。鳩山由紀夫氏は、小泉氏がぶっ壊したはずなのに壊れていない自民党を敵にすることに成功し、政権交代を果たした。だが、その鳩山氏は小沢一郎氏とともに「旧来の既得権者」の椅子に座らされ、自らが敵と化した。そして「小沢支配」を敵とみなしてぶっ壊した菅直人新首相は、思惑通り民主党の支持率をV字に回復させたのだ。
ところが支持は伸びなかった。それどころか、選挙中盤から民主党の勢いは目立って下がり始めた。この時点ですでに菅首相自体が「既得権者」と見られていたということだ。消費税をぶち上げる前に、演説の棒読みや官僚への配慮をにじませる発言に対し、多くの市民は「おやっ」と首をひねっていた。エイズ問題で脚光を浴びた厚生相時代の切れ味がまったく影を潜めていたからだ。
そして、「消費税」後はころころと発言が変わる。初めての市民派総理として颯爽と登場した新首相がふらつきっぱなしとあっては、有権者の失望を招くのは当然だ。閉塞状況が続くと、人々は“強い言葉”にひかれ、“強い人間”に身をゆだねる。既得権者=敵を殲滅する英雄が求められる所以だ。
菅氏は英雄になりそこねた。だが、英雄待望社会がファシズムの危機を内包するのは言うまでもない。党として敗北したわけではない民主党が立ち直るためには、社会民主主義的政策を鮮明に打ち出すことだ。既得権の見直しを図り社会の閉塞状況を打破するのは、ひとりの英雄ではなく政党の役割だと宣言すべき時である。(北村肇)
2010 年 7 月 9 日
9:00 AM
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北村 肇 |
タグ:参院選
参議院議員は草花だ。種を植え、水をまき、肥料を使い、大事に育てる。有権者が自らの努力で「美しい花」を咲かせることが可能だ。これに対し、衆議院議員はペットのネコやイヌにも似ている。どんなに愛情を注いでも、時にソワソワして落ち着かない。大人になる前に、外に飛び出して戦うことがあるからだ。
総選挙を経て国会に議席を得た議員は、その日から、いつ来るかわからない「解散」に向けての戦闘モードに入らざるをえない。勉強する余裕がないと愚痴る議員も多い。一方、参議院議員は少なくとも6年間を保障される。じっくりと政策を積み上げたり、さまざまな現場に行き、有権者に接することもできる。
両院のこの違いは大きい。だが、普段、有権者はそのことに気付きにくい。マスコミが総選挙同様、「与野党勝ち負け」報道にいそしみ、ついつい、その流れに巻き込まれてしまうからだ。
参議院は「良識の府」「再考の府」と言われてきた。党利党略が渦巻く衆議院で市民・国民にとってプラスとはならない法案が可決、送られてきたとき、参議院は「良識」にのっとって「再考」し、場合によっては廃案に持ち込んだり、大幅に修正する。1947年に参議院が誕生して以来、幾度となくその役割を果たしてきた。
第1回参議院本会議で、最大多数を占めていたのは無所属議員92人の「緑風会」だった。貴族院議員からの横滑りが多かったが、「不偏不党」を掲げ、既成政党とは一線を画していた。保守主義者が多かったとはいえ、衆議院に対する一定のブレーキ役を果たしていたのは間違いない。
だが、しだいに参議院は「政局の府」と呼ばれるようになる。政権与党は法案を衆参で通すため、参議院における過半数議席維持に腐心してきた。いわゆる「ねじれ国会」になると、法案審議が混乱し参議院の動向によっては解散・総選挙にもつながりかねない。まさに参議院が政局の「台風の目」となるのだ。村上正邦氏や青木幹雄氏のような「参議院のドン」が生まれるのは必然であった。
参議院を再び、良識の府としなくてはならない。そのためには、茎をぴんと伸ばし、気品とともに、見るものをふんわりと包み込む温かさをもつ、そんな花の種を、私たち有権者が見つけ、育てる必要がある。(北村肇)
2010 年 7 月 2 日
9:00 AM
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カテゴリー: 一筆不乱
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北村 肇 |
タグ:参院選
虚しい。国政選挙のたびに、これではいけないと戒めつつ、どうしても虚しさに襲われてしまう。今回の参議院選挙もそうだ。何しろ争点がない。二大政党時代といいながら、明確な対立軸がない。新聞は仕方なく「消費税」を前面に出すが、民主党も自民党も「10%」を政策としているのだから、おかしな話だ。
小泉「郵政」選挙は、表面的には「郵政民営化」が争点だった。昨年の総選挙は「政権交代」がそうだった。しかし、二大政党が鎬を削る選挙の争点は、本来、そんなものではない。国の根幹や将来に関して、根本的な理念と政策の違いをきちんと打ち出し、市民・国民の判断を仰ぐ。それこそが争点に値する。
確かに、鳩山民主党は、先の総選挙で社会民主主義的方向性を若干ながら示した。だが、参院選のマニフェストを見る限り、消費税が典型だが、自民党的発想に先祖返りしているように見える。選挙手法も同様だ。
かれこれ20年ほど前、自民党議員を渡り歩く凄腕の選挙屋に取材した際、「コツは何か」と聞くと、間髪をいれず答えが返ってきた。「いつ、だれに、どれだけのブツを配るかだ」。票はカネで買うものという確固たる信念を感じさせた。ただし、「ブツ」は必ずしも現金ではない。中央だけではなく各地域に存在するもろもろの「圧力団体」への利益供与も含まれる。補助金から始まって、事業の入札、規制緩和など、「利益」の形態はさまざまだ。
その後、国政選挙や首長選挙では「風」が結果を左右する傾向が強まった。無党派層が雪崩を打って動いたときは、さすがの組織票もひとたまりもない。民主党の政権奪取も「風」あってのことだ。しかし、それを横目に旧来の組織票固めに全国を動き回る政治家がいた。小沢一郎氏である。利権を最優先する圧力団体は与党になびく。この構図は変わらない。そして、風は吹くこともあれば吹かないこともある。凪状態になれば投票率は上がらず、組織票が決め手になるのだ。
本誌今週号では、さまざまな圧力団体が与党・民主党に鞍替えしている実態を特集した。表舞台からは一旦、消えた形になったが、民主党が勝利すれば、それは明らかに「小沢流」の勝利である。その背景には、民主党が自民党とさしたる変わりのないことへの、各団体の安心感があるのではないか。見た目だけの二大政党を軸にした参議院選挙――虚しい。とはいえ、漆黒の空に一閃の流れ星を探すのが、有権者の役割でもある。(北村肇)
民主主義とは何か、学生時代から考えてきた。解答はまだ思いつかない。ただ、多数決主義がそれではないことは確かだ。多数派の意思が通るということは、少数派の意思が無視されることでもある。マイノリティーの声に耳を傾けることこそ民主主義なら、多数決によってことが進むのは横暴ともなりかねない。
しかし、権力を持った少数の人間が勝手にふるまうのは、民主主義から最も遠い地点のことだ。やはり、多数の人間の意思が尊重されねばならない――と、かように思考は堂々巡りをしていき、終着点がない。結局、「絶対的存在者に判断を委ねるしかない」という安易な方向に走った先に、最も忌むべきファシズムがあるのだろう。
すべての個が自立し、しかも他者の存在に想像力を働かせることのできる社会なら、多数決が横暴になることはあるまい。だが、その理想ははるかだ。となれば、メディアの役割が重要となるのに、現状は薄ら寒い。残念ながら、マッチポンプのような世論調査を平然と続ける新聞・テレビには、ほとんど期待できない。
『東京新聞』6月10日朝刊の「全国世論調査」をみて愕然とした。「菅首相は米軍普天間飛行場移設問題で、移設先を沖縄県名護市辺野古崎とした日米合意を踏まえて今後対応する考えです。この方針を評価しますか」との問いに、半数を超える52.2%が「評価する」と答えた。「評価しない」は34.5%、「分からない・無回答」が13.3%だった。
この数字は何を意味するのか。普天間問題が鳩山由起夫氏の致命傷になったのは、「移設先が沖縄県外あるいは国外にならなかった」からではなく、「ふらついていた」からであることを示している。このままでは、移設先が普天間に落ち着いても菅政権の支持率が大きく下がることはないだろう。沖縄はまたしても見捨てられるのだ。
こうした「民意」が生じたかなりの責任はマスコミにある。『朝日』も『読売』も、「鳩山首相の腰が定まらないから、日米同盟が揺らいでいる」というトーンの報道をし続けた。“被害者”沖縄への想像力は欠如し、米国との関係が壊れたら日本の安全が守れないという、古色蒼然たる主張を振りまき続けたのだ。そして世論調査で鳩山政権の支持率が下がるたびに「それみたことか」とあおった。
民主主義とは何か、メディアの役割とは何か、マスコミがこのことを真摯に考え、日々の報道に生かさない限り、この国に未来はない。(北村肇)