編集長コラム「金曜日から」 編集長のコラムを公開しています。

警察とメディアが自浄能力を失ったとき、死んだはずのゾンビが蘇る

 なぜ「法律」や「規則」があるのか。人間は本来、自由だからだ。何をしてもいい、でも、それでは衝突することもある。だから最低限の「枠」をつくろう。これこそが人類の知恵だ。だが昨今、この国の為政者は「もともと国民に自由はない。やっていいことは政府や議会が決めてやる」と考えているようだ。

 何しろ、「国家権力を縛る」目的の憲法を「国民を縛る」ものに変えろという国会議員がいるのだから凄い。よほど、従順な市民をつくりたいらしい。では、国の命令に従わなかったらどうなるのか。秩序や治安を侵した者として排除される。非国民というわけだ。その延長線上で、「ささやくだけで逮捕される」共謀罪も出てきた。いやはや、この60年間、どこまで知恵を後退させたのか。

 本誌はキャンペーン企画として「警察の闇」を特集してきた。今週号が第4弾。裏金問題の底深さもさることながら、自浄能力の欠如した警察組織に唖然とする。正義の立場で内部告発した警察官を叩く、報道したメディアに報復する。これでは「ヤクザよりひどい」と言われても仕方ない。

 心ある警察官はたくさんいる。取材体験の中でそれは断言できる。痛飲しながら、お互いに「組織と上司」の批判をしたこともたびたびだ。そう、新聞社もまた自浄能力の欠けた組織なのである。

 裏金問題を徹底的に追及したのは、北海道新聞、高知新聞、愛媛新聞など地方紙だけだ。全国紙はおよそ、おざなりの紙面しかつくっていない。理由は簡単。「警察を批判したらネタがとれない」「ネタがとれないと社内の評価が下がる」「評価が下がれば出世できない」。

 かつてメディアと警察は、いい意味での緊張関係があった。不祥事を書いても、それで関係の切れることはなかった。どこか深いところで、ともに「社会のために働いている」という意識があった。青臭かった。評価や出世を一番に考える警察官や新聞記者は、むしろ少数だった。

 特高警察、ナチの親衛隊……おぞましきものどもは骸と化し、過去の遺物として語られてきた。しかし実のところ、特高の魂はしぶとく生き続け、新たな権力の胎内で孵化しつつある。それをチェックするマスコミはない。この化け物は人間の自由を食い尽くし、巨大化する。そして一旦成長したら、もはやいかなる人間の手にも負えなくなる。(北村肇)

戦争は嫌だ。これが市民の素直な気持ちであることを、小泉首相や改憲派はどう考える。

 下町の私鉄で、こんな親子の対話を聞いた。

「お前の一番、嫌いなものは何だ」
「戦争」
「うん、戦争はみんな嫌だよなあ」
「じゃあ、どうしてアメリカは戦争するの」
「アメリカは自分の国では戦争しないんだ」
「ずるいね」
「よその国に攻めていって戦争するんだからなあ」
「やっぱりアメリカはずるいよ。嫌いだ」

 二人は最初、運動会の話しをしていた。小学校3、4年生と思われる男の子が、自分たちのクラスがクラス対抗戦で勝ったことを自慢して、とうとうとしゃべる。そのうち、「お父さんは運動会が好きだった?」に始まり、次々と質問を投げかける。

 うるさがる風情もなく聞いていた父親が、ふっと子どもに尋ねたのが冒頭の「お前の一番、嫌いなものは何だ」だった。 

「アメリカは嫌い」と言い放った子どもは、すぐに次の質問に移った。
「アメリカにはディズニーランドがあるの?」 

 お父さんは変わらない様子で、「アメリカには二つディズニーランドがあって」とやさしく解説した。男の子はじっと聞いていた。

 この子の学校は先生がしっかりしているのだろう。普段から戦争や平和の意味を教えているのに違いない。およそエリートくさくなく、説教じみた言い方をしない父親もまた、子どもの信頼をつかんでいる。

 どこか頭の上のほうで「改憲、改憲」と叫んでいる国会議員や学者は、何が何でもと靖国参拝を強行した小泉首相は、市民が何を思い、何を求めているのか、考えたことがあるのだろうか。考えようとしたことはあるのだろうか。

 小泉首相、改憲派のみなさん、たまには下町散策でもどうですか。(北村肇)

メディアが権力に屈するのは圧力のためではない。はねかえす決意がないからだ。

 韓国のインターネット新聞『オーマイニュース』の成功で、「市民記者」に光が当たりつつある。新聞記者が一方的に情報を流すのではなく、読者との双方向性を模索しようと、私自身、永い間、提起し続けてきた。記者はときに視野狭窄に陥る。市民の視点がそれへの有効な批判につながることは多々ある。その意味では、ネット時代に生まれた「市民記者」は大きな前進と言えよう。だが、正直に言って、昨今の傾向にはどこか違和感もつきまとう。

 プロとアマの違いがあいまいになっているからだ。どんなに日曜大工がうまくても、看板を出して営業する建築士にはなりえない。逆に言えば、日曜大工程度の腕でプロを名乗ることは許されない。これはどんな世界にでもあてはまることで、ジャーナリストも例外ではない。

 たとえば、新聞社は24時間、日本中、あるいは世界中に記者を配置している。しかも情報の発信源として欠かせない場所はほとんど網羅している。なおかつ、記者は日常的にジャーナリストとしての訓練を積んでいる。いかに優秀でも「市民記者」にはこれだけの条件が与えられることはない。プロ記者の価値と「市民記者」の価値が同等のはずはないのだ。

 しかし、ライブドアの堀江貴文社長が言い放ったように、既存のメディアに期待するものはないという風潮が紛れもなくある。ネット上に一般の人が書き込んだ情報のほうが有用、という声もたびたび聞く。理由はあげつらうまでもない。新聞記者も放送記者も信頼されていないのだ。

 いま問われなければならないのは、「プロとしての自覚」だ。名誉や地位や金銭的利益にとらわれず、市民のために権力の監視ができているのか。すべてのジャーナリストは、存在を賭けてその問いに答えなくてはならない。

 今週号の特集では『朝日新聞』を批判した。右派メディアと同じ論陣を張るつもりはない。叱咤激励して、蘇ってほしいとの一点だ。もし同紙までが右傾化し権力を批判できなくなったら、この国は間違いなく奈落の底に墜ちる。

 現場記者はもちろん、経営陣に言いたい。権力に屈するのは圧力が強いからではない。はねかえす決意と胆力がないからだ。(北村肇)

権力は暴走する。そして潰える。これは必然の流れだ。

 教わったとき、なるほどなあと感心したことわざがいくつかある。これもその一つだ。「実るほど頭を垂れる稲穂かな」。こまっしゃくれたガキは、何かというと高飛車に生徒の頭をこづく教師が不快だった。先生は偉いんだから、もっと頭を垂れればいいのにとは、さすがに小学生の身では言えなかったが。

 首相就任当初、「米百俵」で話題をとった小泉氏。圧勝劇後は、丸々太った稲穂となり、反っくり返っているようだ。慎みとか謙虚とかいう言葉は無縁らしい。後継者になりたければ自分の方針に従えとは、これを独裁者と言わずなんと言おう。

 だが問題は小泉氏にとどまらない。強権的な雰囲気は自民党全体を覆っている。この際、懸案事項はみんな押し通してしまえとばかりに、特別国会が暴走を始めた。今週号で特集したように、憲法改悪に向けた国民投票法案を審議する憲法調査特別委員会の設置、共謀罪成立の動き――。

 口に出すのもばからしいが、総選挙で同党が「憲法改正」や「共謀罪の重要性」を訴えた形跡はない。まあ所詮、政治家などそんなものと醒めてはいるものの、悪質性はこれまで以上だ。

 国会の暴走は過去にもたびたびあった。ブレーキをかけたのは野党、マスコミ、ときに与党内の反主流派も加わった。結果として市民の目が永田町に向き、次の国政選挙では与党惨敗ということも起きた。 

 だが、民主党は自民党と変わらず「改憲派」のようだ。新代表などはわざわざ就任演説で「9条改正」に触れている。肝心の最大野党がこれでは、国民投票法案についても、十分な論議のないまま成立しそうな勢いである。

 一方、マスコミは、憲法改悪や共謀罪の重要性に関して、ほとんど報道していない。ウオッチドッグの使命など、はるか昔に置き忘れてきたのだろうか。また自民党内の反主流派も、解散前とは様変わりにおとなしいもの。

 権力が暴走するのは必然。しかし熟れきった稲は刈り取られ、食され、忘れ去られる。これもまた避けられない流れだ。「一昨日」が「昨日」でないように、「明日」は「今日」ではない。(北村肇)