編集長コラム「金曜日から」 編集長のコラムを公開しています。

史実に則り、人道的正義をもって、「神話」の悪利用を弾劾する。それこそが、歴史教育の役割の一つだ

「神話」はおそらく、いかなる国にも民族にもあるのだろう。「死」の耐え難い恐怖と苦悩から逃れるには、「無限」な何かを措定する必要がある。その意味で、神や創造主の逸話は「生命」の無限性の担保につながる。「神話」はまた、時に民族の優越性を生み出す。「選ばれた」民としての一体感を演出するのだ。
 
 日本で教育を受けた人なら、大半が、イザナギやアマテラスの「神話」を知っているだろう。また、それが現実に起こった「歴史」とは異なることや、あたかも史実であるかのごとく権力に利用された「歴史」についても、教わったはずだ。だがいま、封印されたはずの禁じ手が蘇えり、暴れ回っている。

「つくる会」の歴史教科書は、「歴史」と「神話」を意識的に混同させているようにみえる。具体的なことは本誌の特集を参照してほしいが、およそ特異な教科書としか言いようがない。さらに、「つくる会」関係者は、従来の歴史教育を自虐史観と斬って捨て、南京大虐殺も従軍慰安婦も「史実」ではないとまで言い切る。4年前、この教科書がほとんど採択されることのなかったのは当然だ。だが今年は「10%の採択を目指す」という。

 右傾化の時代とはいえ、「つくる会」教科書の採択が相次ぐような事態は起きえないだろう。しかし、問題は“余波”にある。知り合いの教師にこんな話しを聞いた。「現場では、『つくる会』教科書を拒否すると、対極にある『良心的』教科書も採択しないという傾向がある。そうなると、結果として『若干、右寄り』の教科書が選ばれてしまう」。なんのことはない、「つくる会」教科書の採択はなくとも、全体に教科書は“右傾化”し、良心的教科書が採択されにくくなっているというのだ。
 
 歴史は童話でも小説でもない。「優秀な民族である日本人が、西欧に侵略されていたアジア各国を解放してあげた」という「神話」を、史実に則り、人道的正義をもって弾劾する。それこそが、歴史教育の役割の一つだ。

 教科書がまともでなければ、教師は自らの「意志」と「見識」で授業をするしかない。そうした実践が、結果的に良心的教科書採択への道を開くはずである。(北村肇)

「革新知事」の誕生で、民主主義の砦になるはずだった首都圏。30余年後のいま、大きく歪むさまに、立ち竦む

「新宿」は特別な場所だった。国家権力はさまざまな暴力装置を持っているのだなあと、身をもって実感した機動隊の圧力。連帯という名の空気を、若者の歌がこだまさせ続けたフォークゲリラ。美濃部亮吉都知事誕生を信じた民衆が、今どきはサッカーにとられたが、「青い波」の興奮にウエイブした投票前夜。

 確かに勢いは「こちら側」にあった。政権を倒すまでには至らなかったものの、東京、埼玉、神奈川と、相次いで「革新知事」が生まれ、自治体革命が日本を変えるのでは、という高揚感に包まれた。いまは“死語”ともいえる「社共共闘」が、現実の力となって自民党を追いつめつつあった。少なくとも「そう見えた」。

 あれから30余年。「新宿」は変わった。そこにはデモも機動隊もなく、カラオケボックス以外には滅多に歌声も聞かない。ゴールデン街だけがひっそりと、「70年」の残滓に灯をともし続けている。歌舞伎町でいま闘っているのは、一部の風俗業者
と、彼ら彼女らの追い出しをはかる石原慎太郎都知事くらいだろう。

 その石原知事は、自虐史観排除、「つくる会」教科書支持を鮮明にする。そして上田埼玉県知事、松沢神奈川県知事は石原氏を全国知事会会長に推した。二人とも民主党の応援を受け当選した知事だが、主義・主張は石原知事に近いことを、はからずも露呈した。もっとも、民主党を、いわゆる「革新政党」と考えるのは大いなる幻想かもしれないが。

 さらに千葉県知事選には、石原氏と考え方が近いといわれる森田健作氏が立つ。森田氏が当選、たとえば一都三県で使用される教科書がすべて、「つくる会」教科書になったとしたら……。

 民主主義の砦になるはずだった首都圏が、大きく歪むさまに、立ち竦む。

 知事は市民が自ら選ぶ。だれを選択するのか、いま千葉県民が問われている。だがこれは千葉の問題だけではない。東京からも、神奈川からも、埼玉からも、かつての「新宿」を知っている人間は、こぞって千葉に目を向け、メッセージを発しよう。(北村肇)

北朝鮮問題では、至極当たり前の見解が、当たり前でなくなってしまう

 ウィルス、放射能、電磁波。「怖い」ものの共通項に「見えない」がある。そこで人類は、なんとかそれらを「目に見える」形にし、対応策を考えようと努力してきた。人間関係にもあてはまる。第一印象で判断せず、じっくりつきあい、本質をみることが重要なのは、多くの人が体験的に理解しているはずだ。

 このような「理屈」が反論を受けることは少ない。しかし、ことが「北朝鮮問題」になると様相が変わる。「まずは国交を回復し、相手を十分知った上で、拉致問題の根本的解決を図るべき」という言説が多数派にならない。一方で、「とにかく怖い国、許せない国」といった感情的、感覚的意見がまかり通る。

 国家による「拉致」が言語道断なのは、いまさら言うまでもない。北朝鮮が事実を隠蔽し続けてきた歴史も、忘れてはならない。金正日独裁体制を支持することもできない。

 むろん、日本には、アジアに対する侵略戦争の「罪」がある。北朝鮮の「犯罪」の背景にそうした歴史的経緯があることは認識すべきだ。にしても、考えるべきは、拉致被害者は「個人」であり「国家」ではないということである。国家間の問題に個人を巻き添えにするような蛮行は、いかなる理由があれ許し難い。ある日突然、理由もなく肉親を奪われた人々の思いは、想像にあまりある。その苦しみに同調した多くの市民が、北朝鮮に憤りや不安を感じるのは当然でもあろう。

 だが政府や議員がそれでは困るのだ。日本の将来を考えたら、いたずらに恐怖や復讐心をあおるのは愚行でしかない。戦争責任について、改めてきちんと表明したうえで、国交を結ぶ。その時点で、拉致問題の徹底的な真相究明を強く求める。これこそが、問題解決の最も早道である。

 さらに言えば、拉致問題の解決は、結果としてアジアの安定にもつながるはずだ。こうしたことを、冷静に、理路整然と市民・国民に説くことこそが、政府の責任である。

 ここまで書いて、我ながら何と平板な文章だろうと思った。そして気づく。実は、それくらい当たり前すぎる「私見」であることに。(北村肇)

難民を強制送還した法務省の官僚は、どれほど頭がよかろうと単純な真実がわからない。「問題解決には『温かい気持ち』が必要」という真実が。

 海外の某企業が、社員にこんなテストを出したという。「○○(遠方の地名)まで、最も速く行ける方法を考えなさい」。飛行機だ、いや車だろうと、いろいろな回答があった。その中で最高の“正解”とされたのは-。

「一番好きな人と一緒に行くこと」。解説は必要ないだろう。

 思わずうなった。そして、素敵な方法で、「心」や「時間」の意味を社員に伝えた経営者に感心した。
 
 成績が一番、という教員。効率が最優先、という経営者。規則がすべて、という官僚。いつのころからか、どこを向いても、そんな人ばかりが目に付く。

 これではとても、余裕がもてない。だからイライラする。だから懐が狭くなる。だから自分も不幸になり、人を不幸にもする。この国ではいま、「温かい気持ち」さえあれば大半の問題は解決できる、という大切なことが忘れられている。

 本誌今週号で詳述したように、国連が難民と認定した人を、法務省が強制送還した。世界的な常識からいっても、およそありえないことだ。だが同省は「なんの問題もない」と開き直る。そこには常識だけではなく、「温かい気持ち」のかけらもない。

 日本の入管行政は、言い古された表現だが、「血も涙もない」といわれる。担当者は難民を人間としてではなく、書類上の記号としてしか見ていないと憤る弁護士もいた。法を超え、「情」や「世間的常識」を重んじる「大岡裁判」が、すべて正しいという気はない。規則・規制が意味をもたなくなるような社会では困る。だが、血の通わない行政は決して社会的秩序を生み出さず、結果として市民に不信感を植え付けるばかりだ。

 法務省に限らず、官僚はよく「難しい政治的問題」という。ちっとも難しくない。最も重要なのは、素直な感情である。六法全書も電卓もいらない。“正解”は「心」からわき出てくるのだ。(北村肇)