編集長コラム「金曜日から」 編集長のコラムを公開しています。

無用の長物と化した原発を「いかに計画的に減らし、無くしていくか」について早急に検討する、それこそ現実主義だ

 何を守りたいのだろう。ぜひ聞いてみたい。原発推進派の面々にだ。

 チェルノブイリ事故が如実に示した通り、核兵器を街中でさらしているのと同様な危険を持ち、最終処理を含めたら圧倒的にコストも割高。こんなこと、国も電力会社も、とうの昔に気づいていたはずだ。なのに、すべての暗部を隠蔽し続けた。そこまでしてあなたたちが守ろうとしているのは、結局、既得権益と自らの「地位」だけではないのか。
 
 その結果がもたらしたもの。今回の美浜原発事故をはじめとした、無数の原発労働者の被害、東海村臨界事故を筆頭に数々の放射能漏れ事故、強引な誘致によるトラブル…。挙げればきりがない。

 かつて、科学技術庁(当時)の官僚や電力会社の幹部と、何度もやりあったことがある。彼らは二言目には「いま原発が止まったら市民生活はできなくなる」と強調した。「すでに自衛隊は存在するのだから、憲法のほうを変えるべき」と強弁する与党議員と同じ理屈だ。えせ現実主義以外の何物でもない。
 
 ある電力会社の中間管理職からこんなことを聞いた。
「チェルノブイリ事故の後、日本の電力企業の首脳が旧ソ連に視察に行った。そのとき、みんな同じ感想をもったんです。それは『われわれの企業にとって、原発は将来、お荷物になる』ということです」
 
 事実、“脱原発”への道を模索している企業もある。だが、いまのところ正面きって宣言する社はない。単純に言えば、責任を負わされたくないからだろう。官僚も同様なのではないか。かくして「いま止めたら大変」という、えせ現実論がまかりとおる。

 真の現実主義は、無用の長物と化した原発を「いかに計画的に減らし、無くしていくか」について早急に検討することだ。守るべきは「市民生活」なのである。(北村肇)

高校野球にオリンピック。二大不愉快イベントの背景にあるのは、幻想の“連帯”を求める大衆への、メディアの迎合だ

 スポーツを観るのは嫌いではない。だがうんざりするときもある。「ニッポン勝った」と大騒ぎするオリンピック。「涙と感動」を強要する高校野球。なんと今年は、この二大不愉快イベントが、こともあろうに不快指数極限の猛暑の中をやってきた。
 
「観なければいいのに」と言われるかもしれないが、ことはそれほど単純でもない。 

 実はオリンピックも高校野球も、大手メディアにはタブーだ。「批判しにくい」のである。後者の取材は新聞記者時代、何度か経験した。たとえ礼儀知らずの生意気な高校生でも、「黙々とがんばる」球児に描かなくてはならない。これは同僚記者の話だが、ある年、ひとりの球児がアイドルタレント並みに騒がれた。地元では有名なツッパリで、シンナーや覚醒剤の情報もあった。だが主催者の朝日新聞(夏)、毎日新聞(春)だけではなく、どの社もスター扱いの紙面展開に終始したという。

 似たような話はいくらでもある。なぜか。読者のクレームが殺到するのはもちろん、部数が減ったり、広告が入らなくなったりするからだ。

 オリンピック報道も同様で、金メダル候補の批判をしようものなら大変。読者、オリンピック委員会、スポンサーなど、あらゆる方面からバッシングを受ける。そうこうしているうち、メディアの中に自己規制が働き、選手はみんな「さわやかなアスリート」になってしまう。
 
 根底には、幻想の“連帯”を求める大衆への、メディアの迎合がある。日本や地元高校を背負い、心を一つにして勝利の栄冠を目指すーーその感動に溶け込むためには、選手はあくまでも“美しく”なければならないのだ。幻想と感じてはいても、それをこわしてほしくないという大衆心理。そこに迎合するメディア。しかも迎合をしている限り、部数や広告に悪影響はない。

 困ったことに、こうした幻想は、いびつな愛国心や、報道の大政翼賛化につながりかねない。だから「たかが高校野球、たかがオリンピック」と無視するわけにもいかないのである。(北村肇)

みんなで「戦争はいかに愚かで悲惨か」の語り部になろう

 弁当には決まって、缶詰一個と白飯だけを持ってくる親友がいた。ときどき、缶のふたが錆で赤茶けている。両親は廃品回収業をしていた。
  
 給食のない中学校が多かった60年代初め。弁当時になると校庭に遊びにいく生徒が数人はいた。例外なく戦争の間接的被害者だった。東京の下町には、まだまだ焼け出され組がひしめいていたのだ。
  
 親類が集まり酒を飲み出すと、いつしか「戦火を逃げまどった」話になる。「川が死体で埋まった」あたりで、聞き耳を立てていた子どもは気分が悪くなる。

「だんだん慣れてしまい、焼けただれた遺体を見てもなんともなくなった」「死んだ女性の指から指輪を抜いていた人がいる」。同じ話題が何度も繰り返されるが、こちらはちっとも慣れることができない。むしろ、しだいにイメージが鮮明になる。うなされて目覚めたことも、一度や二度ではない。
 
 学校では、「なぜ戦争は起きたのか」「日の丸や君が代はどうして問題か」「アジアの人たちにどんなひどいことをしたか」、先生がていねいに教えてくれた。

 どこにも戦争の語り部はいたのだ。
 
 が、体験者は減り、今や国は「自虐史観を排せ」という連中を後押しする。教科書から「戦争の歴史」は消え、一方で自衛隊は肥大化する。大手メディアは、アフガンでもイラクでも、「空爆で10人が死んだ」など、無機質な報道を続けるばかりだ。

 耳学問でもいい、受け売りでもいい、みんなで「戦争はいかに愚かで悲惨か」の語り部になろう。(北村肇)