編集長コラム「金曜日から」 編集長のコラムを公開しています。

平和的資本主義の模索

 安保法制反対デモが若者のあいだで盛り上がり、その運動がひな形になって世代や地域を越えて抗議運動が広がっている。「ひな形」はフライヤー(ちらし)の写真や英語混じりのテキスト(コピーや文章)。そのデザインが“恰好いい”と共感を呼んでいる。

 このようなセルフプロデュースは伝統的な市民団体ほど苦手だろう。反戦人権派は「政治的正しさ」の呪縛に囚われがちだった。本筋から離れた論点や手続きも大事だと議論に時間を費やし内部対立が起きる。確かにおかしいものはおかしい。しかし、根本的に憲法違反なのに、その下位法の正しさを吟味するような思考では悪法も法なりとする官僚的全体主義につながる。

 数年前、環境や食の分野では「スローフード」などと逆輸入概念を企業も使って広告的に文字が躍っていた。低政治性、親・資本だからだ。ゆえに原発など政治的核心部分は忌避もされた。いま空気は変わった。これからは政治に関わり平和を生かすから市場も活発化する「平和的資本主義」も模索したい。

誰に向けての「安倍談話」だったのか

 「安倍談話」が発表され、予想以上に世論は批判的だった。評価したメディアはNHKの”安倍番”、岩田明子記者の解説や『産経新聞』くらいだろうか。安倍談話は「侵略」「植民地」「反省」「おわび」という村山談話、小泉談話の最大公約数であるキーワードをとってつけたように盛り込んだ。事前にメディアなどがキーワードの有無にこだわったことへの答えなのだろうが、スピーチライターを始めとする首相サイドが談話を「可」と考えていたならばお粗末すぎる。もしかしたら最後にはやけくそで談話をつくったのかとまで思う代物だが、それはそれで責任放棄だし、本気であるならばその「知性」がおそろしい。安倍談話はいろいろな角度から世界に恥をさらした。メディアやSNSが批判することで国際社会とのバランスをとるしかない。
 さて今週の特集は大学問題だが、政権は「日の丸・君が代」を大学に強制しようとしつつ国際化をめざす矛盾に気づいていない。安倍政権のガラパゴス化した「保守」は一貫している。

「戦後」を考えつづける

 戦争反対、平和を守れというと、戦争と平和を知らないくせにと突っ込みを入れる輩が出てくる。日曜日に東京・渋谷でデモをした高校生はむろん、私も戦争は知らない。けれども知っている気もする。

「人を殺してはいけない」ということも日々ニュースで飛び交う「命令」だ。なぜ人を殺したこともないのにそんなことを言いうるのか。先にあげた輩はそんな挙げ足もとるのか。体験しなくともだいたいわかるものはある。そして世の中のことはだいたいしかわからないものばかりだ。

 いわゆる戦争の惨禍に対する反省が日本国憲法や国際法に通底することは明らかだ。これもちょっと歴史を振り返ればわかる。しばしば押し付け憲法と批判されるが、大日本帝国憲法の第1条は大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治スと書いてあった。非民主的な憲法が革命などで否定されるのは必然だっただろう。

 2015年は戦後70年。しかし米軍が居座り続ける沖縄では戦後0年とも言われる。わかると思っても考えつづけていきたい。