編集長コラム「金曜日から」 編集長のコラムを公開しています。

首相の心にも、社会全体にも「のりしろ」がないこの国は、どこへ行くのか

 小泉首相には、心の「のりしろ」がない。イヤなものはイヤ、オレはオレ、反対や批判は許せない――。記者の質問に答える顔は、どこにでもいる、わがままで偏屈なオヤジそのものだ。

 この種の人にはありがちだが、永田町ではもっぱら、「小泉さんは他人を信用しない」と言われている。家族以外は心に立ち入らせない。そういえば、一旦は同志でありながら、その後は犬猿の仲となった田中真希子氏も似たような評価をされていた。

 人を受け入れる余裕を持たない人間は、想像力に欠ける。だから他人の足を踏んでも痛みがわからない。「そこに足を置いたお前が悪い」となる。「故意に踏んだわけでもないのに、どうして批判されるかわからない」と平気で開き直る。

 これが上司なら、適当にあしらう。隣人なら、付き合わない。でも、相手が首相とあっては、関係ないではすまされない。

 同じように、あるいは彼以上に「のりしろ」のなさそうな安倍幹事長が、自民党総裁選を独走している。ある永田町住人が話していた。「安倍さんは、むかっ腹を立てると、すぐに顔に出る。声が変わる。これでは首相は無理だ。もう少し“訓練”してからのほうがいいのだが」。与党に近い関係者の心配ごとである。

 NHKの番組改竄問題に介入したのではないかと指摘されたときも、テレビの討論番組で政治姿勢などを批判された時も、あからさまに不快な表情を見せた。ラジオでは、声が裏返ったように聞こえる。はっきり言って、大物ではない。いや、大人にもなりきれていない。

 小泉首相が靖国参拝したその日、元自民党幹事長、加藤紘一氏の実家が放火された。容疑者とみられる右翼団体幹部は割腹自殺を図った。加藤氏は一貫して、小泉氏の靖国参拝を批判していた。暴力により言論封殺を狙った事件の可能性が大きい。

 日本社会そのものから、多様性を尊重し他者を思いやる「のりしろ」が、失われつつある。一方、「のりしろ」のない小泉氏や安倍氏を徹底的にたたこうとはしないマスコミは、加藤氏が狙われた事件に関し、おとなしい報道に終始した。この国はどこへ行こうとしているのか。炎暑の大気が息苦しく耐え難い。(北村肇)

「靖国」から見える、無責任体制の果てに架空の「敵」をつくる組織というもの

 毎日新聞の社屋は皇居の真ん前に建っている。昭和天皇死去の際、皇居側に向いた窓のブラインドを下げるかどうか社内で論議になった。編集現場では、「そんなバカなことをすべきではない」という声が圧倒的だったのは言うまでもない。

 会社と労働組合との団交でもテーマになった。その場で、労務担当役員が珍妙な考えを披露した。「隣家で不幸があれば窓は閉めるでしょう」。反論するのもばかばかしかったが、私を含め、組合役員から怒号が飛んだのは言うまでもない。

 新聞社の経営陣は、ほとんど記者出身者だ。一線の仕事では優れたジャーナリストが、いつのまにかボンクラ経営者に成り下がることも多い。権力批判を日々の仕事にしていたはずが、権力保持に汲々とする。この手の人間にとって社長は「天皇」になってしまう。反論なんてとんでもない。何を命じられても、ひたすら「はいはい」。

 遺憾ながら、「内なる天皇制」は新聞社にもある。絶対権力者の指示には無条件に従うことで、その庇護のもとに身を置く。自分を消していれば、いつかは出世が見えてくる。このようなタイプが役員会を牛耳ると、当然のことながら無責任体制が蔓延する。あらゆる場面で、本質的な解決より、「上の顔色」をうかがうことになるからだ。

 困ったことに、権力におもねることで安住の地を見いだすと、本来の天皇制に対する批判力が衰える。「天皇なるもの」の存在を認めるわけだから、「天皇制批判」は自らに跳ね返ってこざるをえない。だから、本人がどこまで意識しているかはべつにして、事実上、天皇制擁護派と化すのである。

 組織にとって大きな問題が起きたとき、言わずもがなに社長は責任を取らない。方針を決めたのは社長だが、異を唱えなかった役員にこそ責任があるとなる。その役員は「指示通りに動かなかった社員が悪い」と言い募り、社員を代表する組合は社長を追及する。ここで社長が目を覚ませば、事態は好転するかもしれない。

 だが、往々にして最高責任者は逃げ続ける。困った取り巻きの役員連中は、「加害責任」を外部に押しつけようとする。「そうだ、悪いのはあいつらだ。社長も、われわれも、社員も被害者なのだ」。無責任体制の果てに、架空の「敵」をつくる。

 「靖国」のもつ一つの意味がそこにある。 (北村肇)

東京五輪の夢よ、もう一度ですか。足下を見つめるほうが先でしょう、石原知事

 文字通り、手に汗を握った。1964年の東京五輪、女子バレーの日本対ソ連。最後はソ連選手のネットタッチだった。金メダル獲得。感動より、「よかった」とほっとしたのを覚えている。

 当時の騒ぎは、サッカーワールドカップの比ではない。日本中が「東洋の魔女」に熱狂した。むろん、柔道も、男子体操も、日本選手の活躍ぶりは連日、大きく報道され、巷の話題を独占した。

 だが、市川昆監督が撮った東京五輪のドキュメント映画は、確か、競技に関係ない建築工事の現場から始まった。

 小学生にも、そのシーンは強烈な印象を与えた。一言で言えば、それは「破壊」だった。新幹線が誕生し、首都高速が走る。日本はようやく戦後の混乱期を脱し、高度成長の波に乗り始めていた。東京五輪はまさに象徴だった。しかし、巨大な鉄の球が古い建物を壊す様は、「建設」ではなく「破壊」に思えた。
 
 アベベが優勝したマラソンでは、破れた選手が靴を脱ぎ、豆だらけの足をさらし寝ころぶ場面が延々と続いた。勝者の晴れやかさは微塵もない、スポーツのもつ残酷さが画面から突き刺さってきた。

 市川監督の作品は五輪賛歌ではなかった。華やかな舞台の背景にある、暗くおぞましい面に光を当てていたのだ。思えば、ドキュメンタリー映画のもつ「力」を何となく認識した最初の体験でもあった。

 東京都が福岡市とともに五輪誘致に手を挙げた。「あの夢をもう一度」とは、なんと時代錯誤なことだろう。60年代だから市民は熱狂したのだ。しかも、「アスリートの熱い戦い」の裏で、大規模な都市開発が進み、多くのものが失われた“負”の面のあることは、その後、冷静さを取り戻した多くの市民が気づいた。

 石原慎太郎知事、五輪誘致を叫ぶ前に、自らが「破壊」したものに目をこらしてはどうか。誘致に反対の都職員が、それを声にすることができないほど進んだ恐怖政治。「日の丸・君が代」の押しつけにより、根底から揺らいでいる教育現場の人権と自由――。「勝者のおごり」をまとったリーダーは、聞く耳を持たないだろうが。(北村肇)