編集長コラム「金曜日から」 編集長のコラムを公開しています。

私たちが消費する基準はまずは価格が安いことだろう

編集長後記

 私たちが消費する基準はまずは価格が安いことだろう。同じ価格ならば品質がよいもの。商品が公正か、倫理的かの優先順位はかなり低い。ただ最近の日本では安全かどうかを価格以上に気にする場合もある。とはいえ、このような指標は曖昧である。牛肉の放射能は気にしても、BSE検査を気にしているか。そう考えると価格が持つ情報への依存度が増すようだが、価格と価値は別物だ。なぜコメはいつも五㎏一九八〇円、一〇㎏二九八〇円なのか。スーパーが決めて、消費者も思いこんでしまっているからだ。

 世界的競争力のあるらしい「ユニクロ」がなぜあの品質の服をあの安価でつくれるのか。それは海外まで行かなければわからない? 自由貿易の原則、いや製造業のセオリーから言っても安い労働力と材料しかない。日本でも強い農産品で対抗できるとTPP推進派は言うが、八二五号の大野和興氏の記事によれば、ブランド産地の多くを支えているのは一人前の労賃を払う必要のない中国人研修生たちなのである。 (平井康嗣)

 超格差社会を生んだと批判されている新自由主義思想は一言でいえば「小さな政府」

 超格差社会を生んだと批判されている新自由主義思想は一言でいえば「小さな政府」、
二言でいえば「法の支配」と「市場経済」だろう。

 最近、この新自由主義の復権という声がまたぞろ聞こえてくる。
 ごく一部だが。新自由主義をきちんと実施していないから現在の混乱があるというが、効かない薬は効くまで飲めというサギ論法である。

 しかし、そもそも特定の思想を政策として完全に実施することは不可能である。
 可能だという主張は、理性万能で設計主義的である社会主義的発想だ。
 ハイエクら新自由主義者は、そういってマルクスやケインズを「大きな政府」だと批判したはずだが。

 そんなマルクスはかつて次のように行きすぎた資本主義を分析している。
「ブルジョアジーは、支配権をにぎったところではどこでも、封建的、家父長制的、牧歌的な諸関係を、すべて破壊した」
(『共産党宣言』大月書店)。階級的対立論にとどまらない視座がある。思想や政策はたいがい批判から生まれるが、過去との断絶はいけない。(平井康嗣)

土曜日は、創立五五年という朝鮮大学校をのぞいてきた

 土曜日は、創立五五年という朝鮮大学校をのぞいてきた。
 玉川上水の遊歩道を歩きながら、学校へ向かう道は気持ちがよい。
 ピョンヤン科学技術大学名誉総長の話によれば、米国内ノーベル賞受賞者なども訪朝し、米朝は科学外交を進めている。
 この話は講演参加者にも好意的に受け止められていた。
 もちろん米国は朝鮮の資源を狙っている中国に危機感を持っているから、このような外交チャンネルを残しているのだろう。

 一方の日本はといえば、そんな米国の顔色をうかがいながら、敵視外交で関係を断絶している。
 そして国内では人種差別主義者がさらなる排除を加速させることにもなっている。

 当日は大学成立に至る歴史も紹介されていた。

 日本人は従軍をさせたり、炭鉱で安い労働力として利用しつつも朝鮮の人びとを日本社会に受け容れてきた。
 その結果、朝鮮大学校の建物があそこにある。
 それがともに生きる知恵であり、目指された日本社会の姿である。
 この歴史や文化を軽々に足蹴にすることはできないはずだ。

(平井康嗣)

「どんな壊れた時計でも一日に二回は正しい時刻を指す」

「どんな壊れた時計でも一日に二回は正しい時刻を指す」
 ニヒリストとも言われた作家マーク・トゥェインの有名な格言である。
三月一一日から八カ月あまりの時が過ぎようとしている。

時が経てば、三月一一日当初に湧き出た想いや決断や記憶も揺らぎ、薄らいでいくだろう。
忘却曲線はおもいのほか急である。

そんな今、壊れていないと信じていた日本社会という時計の針が、ふたたび正しい時刻を指し示す。
あなただけにとって。ようやく。
そのときに、あなたは時計は壊れていなかったと信じ、もとの日本社会に戻ろうとするかもしれない。
その時にいまいちど立ち止まって思い出してほしい。時計は壊れていたのでは、と。

今週号は震災後の日本に向き合いながら、希望を持って生きているという人たちを特集した。
大事故を起こした原発、その背景にある日本社会をできるだけ見ないようにしながら希望や夢を語る人もいる。
彼女ら彼らはそうではなくて、自覚的に何かを見ようと、今、もがきながら生きている人たちである。

(平井康嗣)