編集長コラム「金曜日から」 編集長のコラムを公開しています。

『週刊金曜日』の平井や××は優等生だ! などと指摘する手紙を希にいただく。

編集長後記

『週刊金曜日』の平井や××は優等生だ! などと指摘する手紙を希にいただく。こういう批判? ってなんとも反論しがたく、「俺は優等生じゃねえ」といきるのも間が抜けているし、「そう、ぼくは優等生です」と言うのも嘘になる。ただまあ、『週金』がいわゆる優等生的であることは否めない。記事は大所高所の正論だらけだ。当然、私も正論を吐き続けている(だからと言って誌名を「正論」にしたら中身がおかしくなりそう)。

 事実は事実、論理は論理である。最近はとかく共感だ、伝え方だとマスにプレゼンする技術が流行っているが、共感や同意を目標や指標にすることの危険はある。一方、正論は取材活動でもきわめて重要だ。嘘をつかず筋を通し続けることできわどい相手と中身のある信頼関係を築けてきた。これは技術ではない。ヒットしている倍返し銀行員物語でも(預金利息を倍返ししてほしい)、微力な人間が筋を通すことが描かれていた。不安の多い時代だからこそ当たり前な「筋を通すこと」にみな飢えているのでは。 (平井康嗣)

一九六四年の東京五輪開催の際にも、敗戦の空気が残る東京で大規模な再開発が行なわれた。

編集長後記

 一九六四年の東京五輪開催の際にも、敗戦の空気が残る東京で大規模な再開発が行なわれた。連合国軍に占領されていた代々木には米軍用住宅であるワシントンハイツがあった。しかし五輪ということで占領地は返還され、国立代々木競技場や代々木公園やNHKなどがその場におさまった。目の前から米軍が消えたことで「戦後」は一つの節目を迎えたように見えただろう。しかしそれはあくまでも東京目線の話だ。米軍基地は沖縄に集中することになったにすぎない。「戦争」が東京から見えづらくなっただけだ。

 二〇二〇年に開催される予定の東京五輪は、なにを創造し、なにを破壊するのだろうか。それは容易く想像できる。政治家や大企業が後ろめたさを抱える「震災」や「原発事故」だ。「がんばろう!日本」という文句も、電通がつくった「がんばれ!ニッポン」というコピーへと次第に移り変わっていくのだろう。この大イベントを前に何が見えなくなっていくのかをこれから見ていかなければならないと思っている。 (平井康嗣)

週末から東京五輪のニュース一色で本当にうんざりしている。

編集長後記

 私は都民だが、週末から東京五輪のニュース一色で本当にうんざりしている。放送される歓喜の姿にまったく共感できず、自分は“非国民”なのかなと、あらためて思った。もちろん多くの日本の運動選手にとって五輪の東京開催は単純に嬉しいだろう。私もかりに一〇代で世界を目指すスポーツ選手だったら、目標ができたと気合いが入ったかもしれない。きっと、これから何年かは東京五輪の種目競技人口も増えていくはずだ。

 ただ二〇〇五年以来、何度か書いていることなのだが、東京五輪はお台場や明治神宮外苑開発のため、石原慎太郎都知事(当時)、ゼネコン、電通、テレビ局などが大義名分として熱心に推進してきたのが始まりである。虚言と夢は紙一重だ。防災都市というのも再開発の大義名分の一つだったが、それも東日本大震災が起き、震災復興の名目はついた。まるで悪魔の予言である。これから国と東京都は堂々とバラマキをしていく。せめて東北五輪なら共感できたが、なにかがまた先送りされてしまった。 (平井康嗣)

日本は高齢化最前線国だ。

編集長後記

 日本は二〇三〇年に六五歳以上年齢が三〇%を超える高齢化最前線国だ。日本社会の高齢者への振る舞いを各国は注視していることだろう。

 独居で暮らす私の母は八月に七〇歳になった。カルチャースクールで西洋陶器の講師をやり続け、病気をしたらお仕舞いが口癖の精神論者であるが、最近、足が痛い、歯が抜けたなどいろいろと弱ってきている。高齢になるほど医療費がかかるのは当たり前なのに、負担は重くなる一方で受診控えをしがちのようだ。みなさんそうなのだろう。

 それでも、ここ数年、婚活は続けている。それもこれもたいして経済力のない息子は老後あてにできないと覚悟をしているからだろう。なけなしの年金を貯めてはお見合いパーティーのようなものに出て、たまにプロポーズを受けたと相談もされる。相手男性も自分の老後の面倒を見てもらおうと来ているようだ。母は結局、なんだかんだ気にくわないと結婚には至っていない。お金の不安がぬぐえないと、気力があっても生きるのはしんどいと思う。 (平井康嗣)