編集長コラム「金曜日から」 編集長のコラムを公開しています。

はやりの「小さな政府」「官から民へ」は、単純な手口の詐欺話そのものだ

 相手が詐欺師と知りつつ、だまされたふりをして記事のネタをとろうと、旧財閥の隠し資金をめぐる儲け話に“乗った”ことがある。結構、衝撃的な体験だった。というのは、段々「ひょっとしたら本物かも」という気になっていったからである。当時、東証上場企業の役員クラスなどがこうしたペテンにひっかかる事件が、たびたび起きていた。取材するたびに、「なんとバカな。いい大人がどうかしている」と思っていたが、ほんの少しだけ納得した。
 
 手口は単純だ。というより単純こそ決め手である。「なぜそんなカネがあるのか」「だれが運用しているのか」などなどの疑問に、スパッと答えが返ってくる。しかもわかりやすい。“証拠”となる古文書や契約書のコピーといった小道具はあるものの、余計な手練手管はない。そして最後の殺し文句はこうだ。「信用できないなら無理は言いません。顧客はたくさんいますから。ただ、損をするのはあなたです」。

 はやりの「小さな政府」「官から民へ」は、詐欺話そのものだ。「賃金が高く、民間企業に比べ働かず、なおかつ必要以上の人数がいる。この公務員を減らせば、財政は良くなる」。単純でわかりやすい。だから、ころっと騙される人が多い。だが、財政破綻をもたらした責任が本当に公務員にあるのか、実は検証もされていない。

 昨年の総選挙。「郵政職員を公務員から民間の社員にすれば、税金の無駄遣いが減る」という暴論が平気でまかりとおった。郵政職員の身分が公務員なのは確かだ。しかし公社になる前から郵政は独立採算性をとっていたので、給与が税金から払われていたわけではない。民間に移行したからといって、直ちに国の財政に寄与することはなかったのだ。

 なぜ政府や与党は市民をだますのか。政権維持や自らのポスト確保のためだけではないだろう。米国が日本政府に毎年、突きつけている「年次改革要望書」の存在がかなり知られるようになってきた。その要望に応えるためには、日本も米国流の新自由主義になるしかない。これは戦後一貫して自民党政権が行なってきた「公平分配」政策の大転換であり、まさしくイデオロギーそのものの変革なのである。

 だが小泉首相が唱えたのは、「郵政改革」「公務員削減」の単純なフレーズだけだった。日本を新自由主義国家にすることで最も得するのは米国である。他国を利するための「小さな政府」。「売国」にもつながりかねないこの真実はいまだに隠蔽され、市民は騙され続けている。見え透いたデマを流す者こそ”真犯人”。それが通り相場だ。(北村肇)

JRを「危険がいっぱい」にしたのは、「時間」の奴隷と化した効率化優先の大人たち

「時間」が一様でないことは、50歳も超えれば肌身でわかる。小学生のころは、平日と休日の「長さ」の違うことが不思議で仕方なかった。社会人になってからは、「長~い時間」を短くする術を少しずつ修得した。だがこの国ではいま、「『時間』は、自分さえその気になれば自由にできるもの」ということを実感できない大人が多いようだ。「一日はだれにとっても同じ一日」と勘違いしている。言い方を変えれば、「時間」という主人に使われている奴隷である。

「効率化」とは結局、「時間」を一様にしてしまうことだ。「決まった時間に決まった仕事をこなす」ことだけが求められる。そこに意志や感情をもった「個性」は必要ない、むしろ邪魔ですらある、マニュアル通りにきちんとこなす「ロボット」こそ生産性を高める。そのような珍説がいまや堂々とまかり通っている。

 今週号の特集で掲載した「JR現場労働者の実名告発座談会」を読み、かなり前、鉄道マンに聞いた話しを思い出した。「レールも生きている。いつ病気になるかはわからない。でもね、ハンマーでこつんと叩いたらわかるんだよ」。

 うかつにも、こうした“プロの技術”は民営化後も脈々と受け継がれていると思っていた。だが現実には、レールの傷を調べる探傷車が、一年に一度走って確認するだけだという。いつのころからか安全確認は機械任せとなり、「こつんと叩く『時間』」は消されていたのである。

 耐震設計偽装問題のとき、コンピュータソフトよりプロの経験と勘のほうがよほど信頼性があるという話しを専門家に聞いた。JRの車両やレールも、欠陥マンションと同様の危険性をはらんでいるのか。

「効率化」は結局、何をもたらしたのだろう。企業の利益優先、安全軽視、自由で個性的な発想の否定、組合抑圧。そして、それらが産んだ物言わぬ社員。

 命じられるままに、「時間」内で任務を果たすことに神経をすり減らす大人。その背中を見ている子どもが「時間」にこき使われるのは当然であろう。「『時間』は強制的な枠として存在するわけではない。自分でつくり、自分で使う『時間』こそ本当の『時間』なのだ」。こうした真理を教わる肝心の「時間」すら、彼ら、彼女らには与えられていない。これもまた日本の危機の一つである。(北村肇)

小泉首相やトヨタといった勝ち組の目線は、どこか歪んでいる

 目線が違う。一国を預かる宰相として目線が間違っているのだ。新年記者会見で小泉首相は、「大方の人が」景気回復を実感しているはずと語った。違う。新バブルに踊り浮かれているのは「一部」の人にすぎない。東京株式市場の大発会では5年4ヶ月ぶりの高値1万6361円を記録、大企業も軒並み収益を増大している。だが一方、身の回りでは「景気のいい話し」を聞いたことがない。「大方の人」は生活や将来に不安を抱いているのが現実なのだ。勝ち組に目線を合わせている小泉氏にはそれが見えない。あるいは、見て見ぬふりをしているのか。

 同じ会見で、首相は靖国参拝問題について「精神の自由、心の問題」と強調し、「内外から批判されることは理解できない」と繰り返した。ここでも目線がおかしい。侵略戦争の被害者たるアジアの人々が視野から外れている。中国も韓国も、A級戦犯が祀られていても個人の参拝は問題にしないという姿勢をとってきた。あくまでも、首相や閣僚の公式参拝を強く批判しているのだ。国家としての「日本」が真摯に戦争への反省に向き合っていないとの危惧を感じ取るからだろう。

 小泉首相は「(靖国問題に)外国政府が介入して、外交問題にしようとする姿勢が理解できない」と真顔で反論する。「小泉純一郎個人」なら文句は言うまい。だがあなたは、日本を代表する宰相なのだ。外交を無視した無責任な態度がいかに「国益」を損ねるか、それこそ理解できないのか。そしてそれ以前に、被害者に目線を当てられないような人を、この国のリーダーにしたくはない。

 06年最初の大型企画に「トヨタの正体」を据えたのは、小泉氏と同様の匂いを同社に感じるからだ。勝ち組のどこか歪んだ目線。「負け組は努力が足りないから」と自己責任論を唱え、彼ら、彼女らの実態を見ようともしない。可能な限りの年貢や労働力を搾取さえすれば、あとは切り捨てる対象でしかない。何のことはない、安っぽいドラマに出てくる悪代官や悪徳商人そのものが、いま日本では大手を振っている。

 昨秋の総選挙でトヨタは自民党圧勝に一役買った。これまではあまり政治の表舞台に登場しなかっただけに、露骨な応援団ぶりに関係者は息を飲んだ。まさしく勝ち組同士が肩を組んでの小泉劇場。だが、トヨタを最大のパトロン(広告主)とするマスコミは、それを徹底批判するどころか、ほとんど報じもしなかった。先述の会見では、誰一人として小泉首相の矛盾に満ちた発言を指摘しなかった。いまや正義なきエリートと化したマスコミは、自らも目線を市民からずらしているのだ。(北村肇)

払拭しきれない「自粛」の縛めを解くには、「自由な表現」の実践しかない

「新年」が二度訪れた年がある。1989年。昭和天皇が死去した1月7日、新聞、テレビは弔意の一方で、「今日から新しい時代が始まる」とばかりに、高揚したニュースを流し続けた。深夜の特集番組は、「ゆく年くる年」を思い出させた。だが、市民の間に漂っていたのは鬱屈した気分であり、「歌舞音曲」どころか笑い声さえ禁止されているかのごとくだった。翻ってみると、あの日からこの国は「自粛」社会に落ち込んだのだ。

 70年代以降、さまざまな「解放」が叫ばれた。たとえば「性の解放」もその一つである。といって、ポルノを解禁しろとの主張がなされたわけではない。「国は個々人の内面に立ち入るな」、「表現の自由を侵害するな」との訴えを、「性」に象徴させたのだ。

 国家は国民の自由を縛りたがる。そのため、できうる限り厳しい法を設けたうえ、運用の余地は拡大しようとする。戦前の治安維持法や通常国会での成立が危険視されている共謀罪などは典型だ。言うまでもなく、狙いは「国の方針に反旗を翻す者」を処断し、そのことによって「物言わぬ民」をつくりだすことにある。

 だが個々人の内面を縛ることは、いかに国家といえども難しい。心の中で権力批判をしている国民を把握することもたやすくない。そこで標的にされるのが「文化」だ。文化という地表では、「私の自由を侵害するな」という、権力に対する挑戦状がさまざまに展開される。それを読み解き、「非国民」を摘発するのが国家の常道である。

 文学、音楽、映像などあらゆるジャンルで弾圧が進んだ戦前、戦中のくびきが外れた瞬間、今度は冷戦構造の下で、GHQによる思想統制が推し進められた。結局、国家のたががゆるみ、ある程度、自由な文化活動が花開くのは、高度経済成長を経てからだった。
 
 だが「解放」の時代は長く続かなかった。そして「平成」に入り、潮目は大きく変わった。この国には、目には見えないが連綿と続く「権威」があり、その前ではすべての「国民」は自らの存在をも投げ出さなくてはならない。重苦しい「自粛」の中で、メディアは先頭を切り、そうした「聞こえざる命令」に“自ら”従った。多くの市民もまた、あふれる情報の中で主体性を見失った。

 自己規制は自律的に拡大再生産し、権力はそれを巧みに利用する。この幻想の縛めを解くのは、つまるところ主体的に「自由な表現」を実践するしかないのだろう。「じだいとひょうげん」と題した新年増刊号にはその思いを盛り込んだつもりだ。(北村肇)