編集長コラム「金曜日から」 編集長のコラムを公開しています。

無責任な全体主義

 6月22日は日韓の関係正常化を実現した日韓基本条約の署名から50年だ。そこで日韓関係で特に根深い「慰安婦」問題をあらためてとりあげた。

 大手メディアはこの問題から逃げていることだろう。旧日本軍の「慰安婦」には、中国人、オランダ人などもいたのだが、韓国だけをことさらとりあげ全存在を否定しようともする。その根拠は吉田証言全否定に依拠する。この乱暴な論争を可としてはならない。しかしこの非論理的な状況には「右派」だけでなく『朝日新聞』も貢献してしまった。

 今の非論理的な社会はハンナ・アレントが研究したところの「ニヒリズム」と言われる状態と言えまいか。〈ニヒリズムとは、現在のいわゆる確立された既存の価値を否定しながら、そうした価値にあくまでも固執するところから生まれるのです〉(『責任と判断』)。〈そうした〉とは「伝統」を指す。ニヒリズムの危険性は疑いを抱き思考をしようとするものの、論理的に思考や吟味ができず、無責任な全体主義を望んでしまうことなのである。(平井康嗣)

「悪法国会」と言って思い出すのが1999年の通常国会だ

編集長後記

「悪法国会」と言って思い出すのが1999年の通常国会だ。盗聴(通信傍受)法、国旗・国歌法、周辺事態法、自衛隊法改定、住基ネット導入が次々に成立した。2015年の国会ではそれらを強化するような改悪法案が次々に出されており、既視感となにかの因縁を感じる。

 当時は佐野眞一が「真空総理」と呼んだ小渕恵三政権。淡々と悪法を呑み込んでいった。この自自政権は野中広務官房長官が自民党を支えるために自由党の小沢一郎に頭を下げ1月に誕生していた。コウモリ党と佐高信本誌編集委員が皮肉る公明党は秋の国会から自民と連立を組み自公の一蓮托生的蜜月は今に至る。

 悪法だらけの99年国会は紛糾し8月13日まで延長。私は始まったばかりの国会ネット中継に毎晩見入っていた。当時は野党議員らが怒号の中、長時間の演説をし、牛歩をし、赤絨毯に寝転び抵抗した。連日国会では集会が開かれ日々の政局が議員らから記者や国民に報告されていた。いまそんな熱気が次第に広がりつつある気がする。 (平井康嗣)

「「戦争法制」は違憲」の見解が世間で反響を呼んだことに少々安堵した

編集長後記

 憲法審査会に参考人として呼ばれた3人の憲法学者が「戦争法制」は違憲だときわめて当たり前の見解を述べたが、それが世間で反響を呼んだことに少々安堵した。安倍、菅、中谷らの自公政権は屁理屈でぬけぬけと道理を外れてきた。物事を言い換えることが永田町用語であり、それが賢いとばかりだ。「慰安婦」問題に関する単細胞な批判も然り。ただ今もぼくは、認める認めないは自分次第という暴力的な「反論理性主義」に、無力感と「大衆」を痛感していることに変わりはない。

 さて今週は国会で審議中の捜査機関(警察と検察)に関する悪法の特集だ。先日は「安保マフィア」だったが、今回は「治安マフィア」を念頭においた。新聞を丁寧にみれば警察の不祥事が多いことに気づくはずだ。癒着、薬物、盗撮など挨拶代わりだ。この国会ではその警察にさらに既得権益を与える。まさに「天国」だ。マスコミも警察・検察から情報をもらっているせいか反応は鈍い。いや、そもそも憲法や「人権」に関心が薄いのか。 (平井康嗣)

日本に住む私たちのコミュニケーションは貧相になるばかり

編集長後記

 海外のことはつまびらかではないが、日本に住む私たちのコミュニケーションは貧相になるばかりとつくづく感じる。私は1997年に小誌編集部に入り、ほどなく「悪法研究」という連載を始めた。執筆は7人の弁護士の方々に御願いした。企画意図は無駄且つ有害な法律や条文がある事態を可視化することだった。

 私たちは国会が開かれるたびに大量に生まれる「法」に縛られ続けてきた。法に縛られるということは、社会との関係だけでなく、人と人との関係も法によって縛られることだ。法律をつくれば人権が守られ合理的になるという思い込みはつまり立法イデオロギーである。コミュニケーションが貧弱で横着な社会ほどルールに依存し、対話より立法と解釈に時間が奪われるようだ。

 法は言葉で成り立つ。言葉は不完全であり、余白を持つことは自明だが、しかしそれも言葉で埋めようと延々と終わりのない論争はつづく。学校教科書もそうだ。言葉だけでは人間関係も歴史も倫理も学べないことをまず自覚すべきだろう。 (平井康嗣)