編集長コラム「金曜日から」 編集長のコラムを公開しています。

候補者に官僚がぞろぞろ。こんな永田町と霞ヶ関のもたれ合いがアスベスト禍を生んだ

 突然の総選挙に、ほっと胸をなでおろしている人もいるのだろう。アスベスト問題の当事者もそうだ。これは労災でもなんでもない。国や企業の「未必の故意」による殺人とすら言える。厚生省(現厚労省)も通産省(現経産省)も、はるか以前から危険性を知っていたのに、対策に本腰を入れなかったのだから。

 本来なら、過去の「罪状」が次々と報じられるはずだった。だが、小泉劇場の前にすっかり影を潜めてしまった感がある。しかし、これで終わったと思ったら大間違い。エイズ問題のときもそうだった。いかに都合の悪いことを隠蔽しようとしても、最後は必ずぼろが出る。天網恢々疎にして漏らさずだ。

 厚生省担当の新聞記者をしていた際、同省の幹部からこんな話しを聞いた。「虫垂炎のような簡単な手術だったら輸血は絶対にしない。入院期間を延ばしても、増血剤を使いながらなんとかする。どんなに検査しても輸血にはウイルスが混じる危険がある」。エイズが社会問題になり、私自身、「エイズは薬害だ」という記事を書き続けているころだった。

 インフルエンザワクチンは効果がなく、しかも副作用の危険が高いことをすべての厚生省の高級官僚は知っていた。血液製剤がエイズの発症につながる危険性もかなり以前から認識していた。でも「黙っていた」のである。
 
 アスベストも同じ構造だ。海外の周到な対応策に気づかなかったはずはない。でも「黙っていた」。多くの官僚にとって、「将来問題になるであろう大量発症」は大した意味をもたない。その省に席を置いているときだけ大過なく過ごせれば、それでいいのだ。

 それにしても、今回の総選挙でも、官僚出身の候補者がやけに目立つ。政治家は官僚に頼り、官僚は政治家を利用する。お互いに、そんな関係が心地よいのだろう。だから国会は、本気になって官僚の隠蔽体質を追及しようとはしない。

 かつて、菅直人厚相(当時)が、厚生省の隠していたエイズ関連資料を出させ、脚光を浴びたことがある。しかし、大臣としては当たり前のことだ。当たり前のことが喝采を受ける、そのこと自体がおかしいのである。

 アスベストは40年で“爆発”する。日本は戦後60年を経て、不治の病いがはっきりしてきた。(北村肇)

敗戦60年、「この国のゆくえ」を決める絶好の機会が訪れた

 なんでこんな国になってしまったのかと、いくら慨嘆し、ため息をついたところで、何一つ解決しないし道が拓けるわけでもない。「いつから」「誰のせいで」と歴史を遡ったところで、ほとんど意味がない。60年、じんわりと国民が自ら作り上げた「国家」、それがいまの日本だ。特別な創造主がいたわけではない。
 
 だから、しんどいしややこしい。もし「諸悪の根元」たる人物を特定できるなら、退場を願えばいい。しかし、史上最低の総理大臣ともいえる、米国追従のみの小泉純一郎首相にしても、彼が退陣したところで「第二の小泉」が登場することは十分、ありうる。

 過去の人間、たとえば中曽根康弘元首相の“罪”はかなり大きい。だが、同氏の歴史的評価を下げることで何かが解決するかといえば、それほど単純ではない。戦後日本をとらえるときの、最大のキーパーソンである昭和天皇に関しても同様だ。

 天皇制を維持したのも、小泉氏や中曽根氏に高い支持率を与えたのも国民である。確かに永田町やメディアの責任は大だ。しかし、特定の絶対権力者が力ずくでもたらしたわけではない。

 逆説的な物言いになるが、絶対者がいて、その力をそぐことができるなら、「この国のゆくえ」はかなり違ったものになる。最低限、多くの市民が閉塞感にあえぐような社会を、木漏れ日の差し込む空間に変えることは可能だろう。だが、「こんな国」にしてしまった責任は、軽重はあるものの、すべての国民にあるのだ。

「当事者意識」の問題ととらえることもできよう。戦後、ついぞ育たなかった、日本という国に住んでいる者としての「当事者意識」。国家と契約を結んだ国民として、国家運営を委託した権力者を監視し批判する。この権利を放棄し、他人任せにしてきた60年ではなかったか。

 だがいま、ひょんなことから絶好の機会が訪れた。“幼児性”をもろに発揮した小泉首相が、「郵政反対派が気に入らないから」と断行した“駄々っ子解散”。これにより実現した総選挙で、再び戦争のできる国にしようともくろんだり、アジア各国との協調など屁とも思わず暴言の限りを尽くしたり、優勝劣敗の差別社会をつくろうとする国会議員を一掃できるかもしれないのだ。国政への無関心が結果として呼吸困難な社会を生む、その恐怖に目覚めるチャンスが、くしくも、あの「9.11」にやってくる。(北村肇)

「解散突入、永田町号崩壊」もいいかもしれない。無能な乗組員の交替ができるから

 スペースシャトルは、耐熱タイルの一部がはがれただけでも悲惨な事故につながりかねない。だがこちらは、ボロボロとはがれっぱなしの状態なのに、乗組員は知ってか知らずか修理する気配もない。軌道の定まらない「永田町号」の話。しかもこのまま大気圏に突入しかねないというのだから、とんだブラックユーモアだ。

 そもそも「郵政」に国民の関心がないのは、さまざまな世論調査で明らかになっている。年金、税金など、生活に密着した問題のほうがはるかに切実だ。北朝鮮の核、イラクの治安悪化といった、避けて通れない国際問題も山積している。なのに日々、永田町の輩は「反対派は何人」「切り崩しが云々」などといった票読みにうつつを抜かす。一体、どこを見ているのか。有権者の信託を受けるとはどういうことか、考えたことがあるのか。いいかげんにしろだ。

 懸案事項はそっちのけ、自分の保身だけを考えあたふたする議員の姿は見るに耐えない。郵政反対派に対し、自民党幹部は「衆議院を解散したら公認しない。公明党の支持も得られない」と脅しをかけている。あまりの手前勝手、低次元の対応に、あほくさくて論評する気にもならない。その脅迫に屈して、賛成に回る議員もいるという。こちらはこちらで情けないの一言だ。

 これは与党に限らない。民主党も同じことだ。野党なら野党らしく、「郵政にばかりかまっている暇があるのか。国会は自民党内の勢力争いをする場ではない」と、どんどん攻め入ったらどうなのか。審議拒否は国民の支持が得られない、とすぐに腰を引くが、それは違う。「支持が得られない」のは、どっちつかずの愚図愚図した態度だからだ。毅然としていないからだ。

 すべての国会議員に「改めて憲法前文を読め」と言いたい。「そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する」。永田町内で無意味なゲームにいそしむ権利は、あなたたちにはないのだ。

 今週号の「鈴木宗男・佐高信対談」で鈴木氏は、次回の衆議院選挙で「北海道新党」を立ち上げると宣言した。現職議員がこんなていたらくでは、鈴木宗男新党に、予想外の票が流れる可能性もある。もっとも「解散突入、永田町号崩壊」は悪くない選択かもしれない。乗組員総替えの機会が生まれるのだから。(北村肇)