編集長コラム「金曜日から」 編集長のコラムを公開しています。

弁護士や警察が群がっている

編集長後記

 W杯がらみの話は、もう今週号でしか書けないだろうから、ここで一言触れ
たい。

 2002年に日韓W杯開催の功労者が電通だというのが“正史”になってい
るらしい。しかしこれとは別の視点を提示する本が6月に出版された。大下英
治著『日本最大の総会屋 「論談」を支配した男』(青志社)であり、その一
節にそれはある。

 FIFA(国際サッカー連盟)理事会で日本開催を強く推したのが南米であり、
背景には南米サッカー連盟のレオス会長の力があったという。「論談」代表の正
木龍樹氏がJALカップ・レコパ・ファイナルを日本で開催し、南米のクラブチ
ームを1992年から4年間招聘したことでレオス会長が日本のために動いたら
しい。

 この経緯は、「論談」の政田幸一氏から以前から伺っていたが、本になると
説得力が増す。ちなみに、これは美談ではなく“ビジネス”の話だ。

 さていま、毒にも薬にもなった?! 「総会屋」は大企業の周辺から見事に消
された。代わりに弁護士や警察が群がっている。(平井康嗣)

公明党は集団的自衛権の行使容認の閣議決定に同意するのか

編集長後記

 公明党は集団的自衛権の行使容認の閣議決定に同意するのか。これは平和主義の否定である。日本政府は自衛権を保有するも憲法9条の解釈にもとづく「専守防衛」に徹する防衛戦略を貫いてきた。

 しかし高村正彦副総裁が提示した行使のための新解釈では、「他国に対する武力攻撃」も行使要件に盛り込んだ。これは「専守防衛」を逸脱する。政府が提示する集団的自衛権の行使事例を見れば、軍事同盟国である米国への攻撃を日本の攻撃と見なして自衛隊を出動させる企図が読み取れる。米国は第二次大戦後も“戦争”を繰り返してきた。「戦後」ではない国である。日本政府が集団的自衛権の行使を容認すれば、自衛隊は米国のために派兵される度合いが飛躍的に上がる。但し書きとしての「限定」や“歯止め”は、時の政権の解釈に左右される。

 日本の「戦後」の平和主義は、永遠に海外で武力行使をしない「戦後」で在り続けるという誓いだったはずだ。戦後69年。日本の「戦後」が強引に終わらせられようとしている。 (平井康嗣)

市場経済をもつ民主制国家の役割はやはり再分配だろう

編集長後記

 外交と安保が国家の役割だと言われるが、市場経済をもつ民主制国家の役割はやはり再分配だろう。古代ギリシアでも貨幣経済は当然に経済的不平等を生んだ。その少数富裕層と多数の貧困者による争いの構図は、現代まで延々と続いている。富裕層がもっとも恐れるのは多数派の貧困者が再分配の声を上げることだ。
 
『自発的隷従論』を読んだ流れで手に取った安冨歩さんの『ジャパン・イズ・バック 安倍政権にみる近代日本「立場主義」の矛盾』(明石書店)には、官僚や大企業中心の自民党に対抗軸を立てたのは「田中(角栄)主義」で、それは対米一辺倒からの脱却、公共事業、福祉重視と整理されている。田中主義は地方や都市部非体制派への再分配だった。マシーンにもなった。

 しかし、自民党は逆戻りしえた。貧困と孤独がこれだけ広がっているのに、だ。貧困者が平等に持ちえるのは国籍や愛国心だけなのか。それは錯覚だ。目くらましだ。経済的な平等こそ政治に求めるものだという視点を強く持ち直したい。 (平井康嗣)

先週は都内で“講演”をさせてもらった

編集長後記

 先週は旧知の松下玲子元都議に頼まれて都内で“講演”をさせてもらった。私はおしゃべりは好きな方だが、講演したり、人に偉そうに教えることは自分には難しいと思っている。いつも躊躇はするが、一にも二にも『週刊金曜日』の宣伝だ。そして不得手なものは克服すべしというかなり力んだポジティブ精神もちらついて、引き受けている。

 当日、講演前に主催者側に「今日は時事的テーマと哲学っぽい話どちらが好まれるか」と聞くと、「やはり裏話やネタです」という声が多かった。そこで時事的な事象について話し、哲学っぽいテーマは最後にしたが、講演後の懇親会では、アーレントやソクラテスのような話をもっと知りたいと言われた。

 翌々日には小社でテープ版読者会と交流があり、そこでも「哲学を」という声を聞いた。おそらく価値観や大量の情報の押しつけへの違和感があり、いま真の考える姿を知りたいという欲求がある。情報を集めても、多数決によっても「真理」には近づかない。「私」が考え続けるしかない。 (平井康嗣)