編集長コラム「金曜日から」 編集長のコラムを公開しています。

辻元清美さん、いつまでも素人政治家の立ち位置を大切に

「式」と名のつくものには、ことごとくなじめない。しきたりが嫌だし、さまざまなタブーが不快でもある。かつて親戚の結婚披露宴で、司会者に「一曲、歌を」と勧められたので、「では、『すきま風』を」と言ったら、かたまってしまった。かわいそうなことをした。

 官僚の結婚披露宴に出たことがある。大学時代の友人で、「あいさつを頼む」と言われていた。それなりに準備していたが、結局、お鉢はまわってこなかった。司会者が「時間がなくてすみませんでした」と謝りにきた。当時はまだ20代。長い時間がたってから気付いた。髪はザンバラで肩まで伸ばし、服装といえば、薄茶色のジャケットに派手目な茶色のズボン。これでは、居並ぶ高級官僚の前で、あいさつなんかさせられなかったのだろう。

 どちらのエピソードも若気の至りだ。いまはそこまで非常識ではない。

 爾来、極力、おめでたい席への出席は断ってきた。だが最近、たまたま二つの披露宴に参列した。意外に新鮮な感じがした。もちろん「仲人」などいない。キャンドルサービスもない。何より、新郎新婦が大いに食べ、飲んでいる。かなりのリラックスムードだ。これなら、あいさつで「別れる」や「切れる」という言葉を使ってもいいかと思ったが、一応、やめておいた。

 権力を持つ者は総じて格式にこだわる。既得権益を守るためには、きまりきったセレモニーの継続が重要なのだ。本誌今週号で、国交省副大臣という、どこからみても権力の椅子に座った辻元清美さんに佐高信がインタビューした。ぜひ読んでいただきたい。
 
 およそ既成の価値観にとらわれない活動をしてきた辻元さん。初めて会ったのは、『週刊新潮』にスキャンダルを書かれたことについて相談を受けたときだ。以来、20年以上のお付き合いだが、どこからそんな元気が出てくるのか、驚き感心するバイタリティーは昔のままである。
 
 だが、ほんの少し心配もある。ここ数年、いかにも「政治家」というオーラが出始めた。決して悪いことではない。政治を変えるためには、いつまでもNGO代表という風情では困る。ただ、永田町に染まってしまっては彼女の良さが消えてしまう。あくまでも素人政治家の立ち位置が似合っているのだ。政府要人としてどこまで存在感を示せるか、当然、期待が大きい。既得権益にからめとられることなく、守りの姿勢に入らず、いつまでも暴れ回って欲しい。(北村肇)

ウィルスより恐いのは、「市民の身体」を管理したい政治権力とマスコミ

 風が吹いてもうかるのは桶屋だが、風邪がはやってもうかるのは、薬品メーカー、医学研究者、それに「市民の身体」を管理したい政治権力。そう毒づきたいほど、新型インフルエンザ騒動には辟易とする。風邪は“万病の元”であり、軽々しく考えているわけではない。しかし、政府やマスコミの反応は異常である。

 あの時のことを思い出す。5月9日、舛添要一厚労相は、新型インフルエンザ感染者が発見されたと、ものものしい会見を行なった。カナダから米国経由で帰国した大阪府内の高校生2人と引率の教員が感染。厚労省は、3人だけではなく、3人の近くに搭乗していた49人も隔離状態においた。詳細は失念したが、当該高校の校長は涙ながらに、する必要のない謝罪をした。そして、これらのことを扱うテレビ報道は、まるで「戦争前夜」のようであった。

 当時、新型インフルエンザを鳥インフルエンザと混同した市民が多かったのではないか。鳥などの動物に由来したウィルスが人間に感染して変異した場合は、何が起きるかわからない。極めて毒性の強いウィルスとなり世界をパニックに陥れることもありうる。国やマスコミの大仰な対応は、単なる弱毒性の新型ウィルスを、こうしたキラーウィルスと勘違いさせるのに十分だった。

 結果は大山鳴動――。これらがバカ騒ぎだったことは、だれもが認めざるをえないだろう。何しろ感染者はすでに500万人を超えたと言われる。5月のような対策をとるならば、1000万人以上の市民・国民を隔離しなくてはならないはずだ。街からは人が消え、経済はガタガタになっているだろう。
 
 そこで今度は「感染者が亡くなった」の大報道である。NHKなどは、連日のように死亡者についてことこまかなニュースを流す。ちょっと待ってと言いたい。毎年、インフルエンザをこじらせて多くの方がなくなっている。なぜ、これまでは報じてこなかったのか。
 
 インフルエンザが話題になれば薬品メーカーが潤うのはわかりやすい。ウィルス研究などに資金が流れるので、医学者の中には利益を得る人もいる。だが見えにくいのは国家の意図である。国は、国民が健康であることを望む。国益にかなうからだ。とともに、いざという時に「右向け右」に従う人間をつくりたがる。その意味で、インフルエンザパニックはもってこいのネタなのだ。「健全な肉体づくり」に手を染めたい国家、その危険性に不感症なマスコミ、こちらのほうがよほどウィルスより恐い。(北村肇)

『週刊金曜日』は与党雑誌にはなれない、ならない

 2ヶ月のわかるカレンダーが残り一枚になった。月日が立つのは早いなど常套句を言う気にはなれない。いつもの「一年」とは違っていた。歴史の転換期を駆け抜けた鼓動の乱れが収まらない。

 国会中継を見る。激しく政府を質す自民党の元閣僚や幹部議員。ときには余裕の風情で、だがときには追い詰められた表情で答弁する鳩山由紀夫首相。これが09年11月の風景だ。

「与党雑誌になりましたね」と言われることがある。社民党も加わった連立政権だから、そう思われても仕方ない。しかし、事実は異なる。ジャーナリズムが与党になびくことはありえない。常に権力とは距離を置き、批判と監視の対象とする、それが報道の姿勢である。ここが揺らいだら、『週刊金曜日』の存在する意味はない。

 本誌は、マスメディアが事実や真実を伝えていないという実態を背景に生まれた。なぜ事実、真実が報じられないのか。一つは「立ち位置」の問題だ。権力を持つ側となれあってしまえば、そこでなされる報道はプロパガンダに堕しかねない。与党寄りと言われた『読売新聞』や『産経新聞』は、明らかに自民党側に立った報道を続けてきた。

 自民党が下野したいま、両紙の論調は民主党政権に批判的な色合いをもつ。だが、これから先はわからない。仮に参議院でも民主党が圧勝、政権が盤石となった場合はどうか。予断は避けねばならないが、与党新聞になることは大いにありうる。一旦、権力と二人三脚になりそのうまみを知ったメディアが覚醒するとは思えない。そして、マスコミが堕落したままなら、民主党の自民党化は避けられないだろう。

 本誌今週号で、民主党衆議院議員308人の全調査を行なった。『週刊金曜日』初の試みだ。同様の企画は他の新聞社系週刊誌も別冊で展開した。こちらも力作ではあった。だが視点はかなり異なる。私たちは、議員をなるべく”冷たい視線”でみるようにした。特に、憲法観、戦後責任、原発政策にはこだわった。想像はしていたが、いわゆる「右派」議員がかなりいる。

「取り上げ方が客観的ではない」と感じる方がいるかもしれない。しかし、報道機関には常に、こうした立ち位置が求められる。どんな権力でも必ず腐敗する――この真実はカレンダーをどうめくっても変わらないからだ。(北村肇)

活字に落とし込んで初めて、真実は社会の中に立ち上ってくる

 杖をついた高齢の女性が電車にはねられた――。警察の広報を受け、ある記者は女性を「事故の被害者」ととらえ記事にする。別の記者は「女性が”何か”によって命を奪われた」のではないかと疑念を抱く。踏切の開閉時間はどうだったのか、周囲にいる人たちはなぜ助けなかったのか――。とにかく、現場に走る。

 踏切自体に瑕疵があれば、「加害者」は鉄道会社ということになる。女性が危険な目にあっているのに、そこに居合わせた人たちが傍観者のままだったのなら、「社会」に命を奪われたと言えるかもしれない。いずれにしても、現場で取材した記者と、机の上で書いた記者の記事は、まったく異質のものとなる。

 新聞記者時代、こうした事例は数え切れなくあった。ルポとは結局、自分の感性に引っかかったことを目や耳で確かめ、そこに潜む真実を文章にする、そしてその意味を多くの人に伝えるという作業なのだろう。活字に落とし込んで初めて、真実は社会の中に立ち上ってくる。これこそルポの醍醐味である。

『週刊金曜日』を創設した本多勝一氏は、『朝日新聞』の有名記者であるとともに、多くのジャーナリストが憧れと畏怖の念を抱くルポライターだった。もちろん、私にとっても「どうやったって追いつけない」存在だった。本多氏はかねてから、昨今の新聞を憂えている。まっとうなルポルタージュがすっかり姿を消してしまい、歯がゆくて仕方ないのだ。本誌今週号に再録した本多氏のルポは、いまの新聞には到底、望めない。

 新聞から濃密なルポが消えた理由はさまざまだ。記者の数が減り長期間の取材をする余裕がない、経営状況の悪化でカネ(取材費)のかかるルポは敬遠されがち。新聞記者がルポへの情熱を失っている……。これらは雑誌にも共通する。さらに、情熱のあるフリーランスは、発表したくても媒体がなく取材費用がまかなえない。やむなく適当な取材でお茶を濁せば、読者の評価は得られるはずもなく、結果としてますますルポは輝きを失う。

 16周年記念の今週号、あえて「ルポの時代」を打ち出した。「真実を社会の中に立ち上らせる」ルポはいまこそ求められている。だが衰退の一途を辿っている。それは私たちの責任でもあると考えるからだ。正直、濃密なルポを次々に繰り出すには、編集部としても企業としても「体力」が必要となる。なかなかしんどい。どこまでできるかわからない。しかし、ルポをつくりだすうえで欠かせない、情熱と意志は持ち合わせている。真実と事実だけを伝える雑誌として、いまいちど、背筋をぴんと伸ばしたい。(北村肇)