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ボロもうけの銀行、個人蓄財に精を出す日銀総裁。いい加減にしろ!だ

「戦後の平和というのは、実は経済戦争によってかき集められたお金で買われていたものだと思います。また、戦争である以上は犠牲者が出ます。一番弱い者は子どもです。だから今の子どもたちは戦災孤児なのですよ」。何度読んでも、大林宣彦さんの文章(本誌615号「わたしと憲法37」)に肯いてしまう。

 貧乏がつらいと心底、思ったことがある。小学生のころ、内蔵の手術をしたばかりの母親が、またすぐに倒れ、二度目の手術ということになった。だが、家にはもう入院費がない。食べるのが精一杯の時代だった。

 当時、私は1日10円の小遣いやお年玉をほとんど使わず、郵便局に貯めていた。それを貸してくれないかと言った母親の表情が忘れられない。貯金は惜しくなかった。別に買いたいものがあったわけではない。子どもに、そんなことを頼まなくてはならない親が、不憫だったのだ。

 似たような経験は、多くの人がもっているはずだ。「世界第2位のカネ持ち国」などと称されるのは、はるか時代が下ってのことである。エコノミックアニマルと揶揄されながら、国家も個人も、ひたすら働き、蓄財にいそしんだ。

 バブル期には、かつてのうっぷんをはらすかのごとく、高級品に大枚を注ぎ込む団塊の世代が目立った。子どもたちに贅沢させることを自らの喜びとする親も多かった。

 戦後の混乱期に生まれ、あるいは幼少時代を送った貧乏経験者なら誰でも、「カネ」のありがたみも、魔力も、知っているはずである。だが問題は、「知った」うえで、どちらに進むのかだ。拝金主義者に陥るのか、カネより大切なものがあることを、子どもの世代に伝えられるのか。

 ボロもうけの大銀行、利殖に走った日銀総裁。本誌今週号の特集だ。「何千億」「何兆円」という単位になると、実感がわかない。市民は、「何千円」「何万円」の世界で日々、暮らしている。だから、「公的資金導入」などというお題目で国が銀行を救ったときも、その後、銀行がバブル期以上に利益を上げたと聞かされたときも、さしたる実感はなかったかもしれない。だが、状況は違っている。金融機関ばかりか、通貨の番人までもが、ここまでカネの亡者になり、しかも、明確な反省の色がないとは――。絶望感に襲われるばかりだ。
(北村肇)