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目に見える成果はないが、存在自体が「実績」。こんなベテラン社員には高い評価をつける。この辺の機微がわからない限り成果主義は成功しない。

 人を「評価」する立場になってから十年近くになる。新聞社の社会部デスクになり、初めて部員を採点するときは悩んだ。何より私情が混じるのではないかと、自分自身に不安だった。そんな折り、救いになったのが、人事畑の長い役員の一言だった。

「人事評価は実績七、好み三ですればいい。人間は誰しも好き嫌いがあるから、絶対的評価などありえないんだよ」

 およそ「閥」をつくらず、仲間と酒を飲むこともなかった人の言葉だけに説得力があった。以来、評価にさほど頭を悩ませることがなくなった。不思議なもので、「好み三」の逃げ道を自分に与えると、かえって客観的に判断できる。

 どの企業でもそうだろうが、上司は「がんばっている」部下がかわいい。中には「ゴマをすってくれる」社員をえこひいきする幹部もいるが、これは論外。人を評価する地位に座るべきではない。もともと記者の場合は、結果がすべてだ。「記事にはならなかったけどがんばった」という“善戦”はない。仮に、大した努力もせず運だけだったとしても、いいネタをとれば勝ちである。その点、評価はしやすいのだ。

 同じような実績の記者に、どうしても優劣をつけなくてはならない場合は、「好み三」がはたらく。それは仕方がない。本来、完璧に数値化された評価など存在し得ないのだから、「エイヤ!」といってしまえ。先述した先輩の言葉に勇気づけられて、こう“開き直る”と、気が楽になり、かえって冷静に採点できるのだ。

 では、たとえば「いるだけで周りが安心するベテラン記者」はどうか。これといった記事を書くわけではない。その意味では、特に社業に貢献してもいない。企業によっては、直ちにリストラの対象になるだろう。だが職場の重石として、知恵袋として、あるいは触媒として、存在自体が「実績」なのだから、高評価が当然だ。この辺の機微がわからない限り、成果主義は意味をなさない。(北村肇)