編集長コラム「金曜日から」 編集長のコラムを公開しています。

「大恐慌」を逆手にとれないか

 キンモクセイの香りがいつもよりきつい。間もなく雨が降るのだろう。科学的思考の人なら、「湿度が高いのだから当たり前」と一言で解説するのかもしれない。だが、人間は科学で分析できるほど単純ではない。気分で嗅覚はいくらでも変わりうる。その日、いつになく私は、精神を解放できていたのだ。

 「大恐慌」のおかげである。短期的には災いをもたらすが、長い目で見れば慈雨ではないか。一国覇権主義の米国が、権威、権力とも失墜する、それは人類にとってこの上のない慶事だからだ。富の集中、権力の集中が奴隷制を生む――数年来、不安感にさいなまれてきた。その解消につながるかもしれない。

 むろん、楽観はしていない。想像するのもおぞましいシナリオがある。大恐慌――ニューディール政策――第二次世界大戦という歴史の繰り返しで、再び、米国が戦争へとのめり込む筋書き。経済のグローバル化で先進国が互いの首都にミサイルを撃ち込むようなことは考えにくい。だが、アフガニスタンの戦火拡大、イランへの侵略など、特定の地域での「紛争」に名を借りた帝国主義戦争は十分すぎるほどに予測できる。

 もう一つ、「究極の資本主義」下で、国家が金融機関を始めとする企業の国有化に乗りだすことにより、国家自体が企業化すること。つまり、自国(自社)の利益を何よりも優先する帝国主義への恐れだ。不況と帝国主義のマッチングはファシズムへの第一歩でもある。

 しかし、市民は同じ愚を何度も繰り返すほど愚かではない。帝国主義がいかに市民の尊厳、人格、生存権を侵害したかは、20世紀の歴史が教えてくれる。国家の主人公たる市民が声を出し、活動することで、新しい世界を作り上げていく、それこそが21世紀の取るべき道筋である。

 話は若干、変わるが、本誌15周年記念集会(11月22日、九段会館)のポスターに、読者の方から疑問の声が届いた。『蜂起』(森巣博著)のカバーを利用したものだが、「日章旗を使うのはおかしい」「『日の丸』を掲げてアジア侵略した歴史を連想させる」という趣旨の批判である。

 戦前、国家権力は天皇制を背景に主権を市民から奪った。戦後は米国が支配者の座についた。新自由主義が崩壊しつつある今、今度は、市民が主権を奪い返すときだ。皮肉を込め、その思いを描きたかった。集会のタイトルは「打って出よう」である。(北村肇)