編集長コラム「金曜日から」 編集長のコラムを公開しています。

「安倍首相辞任」を、主権者の一人として考えた

 この人には帰るところがあるのだろう。安倍晋三氏の総理退任記者会見を聞きながら、そのことを一番に考えた。どんなに失敗しても、批判されても、逃げ込む場所がある。だから、無責任な態度を平然ととってしまう。典型的な、線の細いエリートである。帰る場所がない人間は、そうはいかない。それこそ、ありとあらゆる努力をして、「今」にしがみつくしかないのだ。

「家」に守ってもらうのに慣れっこのエリートを何人も見てきた。共通する特徴は「責任転嫁」だ。「こんなことになったのは自分の責任」という発想が希薄で、絶えず「○○さんが悪い」となる。「家」ではいつも「お前が正しい」と庇護されるのだから、当然の帰結ではある。しかも、社会には「エリートに一目置く」雰囲気が厳然としてある。

 安倍氏が裸の王様になっていることは、永田町関係者の共通認識だった。「お坊ちゃんだから仕方ない」と、あきらめ顔に語る与党関係者もいた。辞任の一つのきっかけとなった「職を賭す発言」の際も、「勝手にしてという感じ」と突き放す声を聞いた。もし安倍氏が「エリート」でなければ、周囲の意見に耳を傾け、戦略を変えただろう。そして、それができなければ、周囲が降ろしていたはずだ。

 支離滅裂な会見が終わったとき、ムラムラと怒りが沸き上がってきた。本人はもちろん、エリートお坊ちゃんを野放しにした与党も許し難い。ここにいたって、「世界の笑い者」とバカにするのは簡単だ。「やっと辞めてくれたか」とホッとした人も多いだろう。しかし、前代未聞の総理の手により、新自由主義はますます跋扈し、教育基本法は改悪され、国民投票法も強行成立させられてしまった。取り返しのつかない歴史が、すでに刻まれてしまったのである。

 安倍氏自身は、温かく迎えられながら「家」に帰るのだろう。多少、プライドは傷ついたとしても、世間一般より恵まれた「生活」が続くのは間違いない。だが、安倍首相が進めた「美しい国」に住む市民・国民は、時代錯誤の教育基本法の下で生きることを強いられ、戦争に加担する危険性を押しつけられ、貧困への恐怖に陥れられたのだ。

 一連の「安倍騒ぎ」で、主権者たる私たちが改めて肝に銘じなければならないのは、政治を劇場化しないということだ。市民・国民が単なる「観客」になることを拒否すれば、政治家もメディアも政治の劇場化はできなくなる。当事者として、必死に監視し、要望をぶつけ、仮に裸の王様が出てきたら、私たちの声で目をさまさせよう。(北村肇)