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JR西日本の脱線事故でみえた、「時間」に振り回される自分の姿

 何のために、「時間」を獲得しようと躍起になってきたのだろう。たとえば列車がスピードアップしダイヤが過密になれば、一定の「時間」を手にすることができる。私もそれを望んでいた。でも、その「時間」を自分のために有効に使ったという実感がない。むしろ、ますます「時間」に追われていく。これは多くの人が体験していることではないか。

 かつて一時間かかったところに30分で行けるようになったとする。残りの30分はどうするのか。これだけ余裕があるならと、結局、仕事をしてしまったりする。むしろ1時間電車に乗っていた方が、その間、本を読んだりできた。なんのことはない、かえって自分の「時間」を失っている。そして、「便利」に潜む、こんな矛盾に普段は気づきもしない。

 JR西日本の脱線転覆事故は、このように生み出された「時間」の本質をあらわにした。同社は決して、乗客のために「時間」をつくりだしたのではない。スピードアップを売り物にして利益追求をしたにすぎない。「自社のことのみを考えていた」と断じては行き過ぎかもしれない。現場に働く社員の多くは「乗客のこと」を優先していたとも信じたい。だが本誌で特集したような実態をみると、少なくとも経営陣を指弾するのは過剰な批判ではないだろう。

 経営陣はまた社員の「時間」をも奪っていた。ミスをした運転士に対する「日勤教育」では、かつては草むしりや掃除などという見せしめ的な内容が横行していた。このことは労働組合への「弾圧」にもつながる。いわば人間的な「時間」を奪うことで、組織への忠誠をつかわせようとしたのだ。

 JR西日本は、危険を認識しながら利潤追求に走り、労働者を抑圧し、結果として未曾有の被害者を生んだ。だがこれは、同社に限ったことではない。民営化で生まれたJR各社が、多かれ少なかれ「利益優先主義」に邁進しているのは確かだ。

 とともに、考えざるをえないことがある。「時間」を売り物にしたJR各社を下支えしているのは誰かということを。新幹線の本数が増えるたびに、「便利になった」と無邪気に喜んだのは誰か。ほかならない「自分」だ。電車が遅延するたびにイライラしているのは誰か。それも「自分」だ。

 JR西日本に憤りを感じつつ、自らをも振り返る。「時間」を搾取されていないか。「時間」に振り回されていないか。(北村肇)