編集長コラム「金曜日から」 編集長のコラムを公開しています。

「納豆騒動」で考えた、テレビが持つ魔性の力

この間、ねつ造事件が発覚、スポンサーは降り、番組は打ち切り、制作関係者の何人かは責任をとらされた。さらには、同じ番組で別のねつ造があるとか、他の番組もあやしいとか、さまざまな情報が飛び交っている。


 
 今回の問題を考えるには、改めてテレビの本質を分析しなくてはならない。その一つは「テレビには、マニュアルをつくってしまう魔性の力がある」ということだ。
 
 同じ時間に同じ情報が大量の人々に伝わる。しかも、多分に「情緒」や「情動」の部分を刺激する。それは何を意味するのか。たとえば、「納豆はダイエットにいい」は、放映された段階で、数百万人に共通の「指針」と化す。翌日には口コミで広がり、いよいよ数百万人のマニュアルとなってしまう。

 新聞には、こうした力はない。配られる時間がバラバラなら、読む時間もまちまちだ。また、活字媒体の特性として、受け手は、「情緒」に流されるより、頭の中の分析を迫られる。だから、与えられた情報を無条件にマニュアル化することは少ない。

 インターネット社会の到来を前にしても、「現時点ではテレビの影響力が最も大きい」と指摘されるのは、一定の方向に大衆を扇動するにはうってつけのメディアであるからだ。

 ラジオ、テレビのもつこの特性を、政治権力が巧みに利用し、あるいは恐れてきた歴史は、いまさら語るまでもない。かつて、佐藤栄作首相が会見から新聞社を排除したのも、「椿発言」が国会で“大騒動”になったのも、「ニュースステーション」が自民党の批判を浴びたのも、放送媒体の力に起因する。

 卑近な例では、小泉前首相はテレビの特性を十分に利用し、「改革派・小泉」「抵抗勢力打破」のマニュアル化に成功した。宰相の座を引き継いだ安倍首相は、「美しい国」「教育再生」の売り込みに必死だ。だがどうみても、売れない役者揃いの安倍劇場で視聴率はとれそうにない。(北村 肇)