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参院選を「勝った負けた」の宴で終わらせてはいけない

 国会を巡る記事には「政治報道」と「政局報道」がある。選挙の議席予測や首相レースの見通しなど「勝った負けた」の類は後者である。プロ野球やサッカーワールドカップの報道と基本は変わらない。予想を外さないためには、スポーツ界と同様、永田町という狭く閉じられた“ムラ”での情報や人脈が決め手となる。

 政治部の「政局報道」を長い間、新聞記者として間近にみてきた。政党別当選者数が他社より正確だったときなどは、「勝った勝った」と社をあげて大騒ぎすることもある。バカバカしい限りだ。

 私は社会部だったが、やはり、話題の候補者の得票予測に血道をあげたこともある。今さら反省しても遅いが、浅はかで情けない。

 なぜ政局報道に走るのか。そのほうが社内で高い評価を得やすいし(出世にもつながる)、ジャーナリストとしての能力も努力も必要ないからだ。「次の首相はだれか」といったテーマなら、極論すれば、高校生や大学生だって1年間永田町をかけずりまわれば、情報をつかむことは不可能ではない。なのに、こうしたネタをつかんだ記者は、社内で“特ダネ記者”と称されるのだ。

 しかも、かような記者は総じて政治報道が苦手である。表層的な情報はつかめても、政治を分析し、この国の進むべき道を自ら考えるという、政治ジャーナリストに欠かせない資質が欠けているからだ。もっとも、「勝った負けた」にしか関心のない政治家がゴロゴロしているのだから、同じムラの住人である政治部記者がそこに染まってしまうのも当然なのか。
 
 言うまでもなく、市民にとって必要なのは「政治報道」である。たとえば、当選者「数」よりは、その「数」の持つ意味がはるかに重要なはずだ。憲法を考えたとき、仮に選挙では民主党が勝っても、改憲派議員は与党側の一員となる。この事例をみるだけでも、単なる「数」の問題でないことは明らかだろう。
 
 翻れば、永田町は絶えず政局ゲームを展開し、マスコミも無定見にそこに乗ってきた。国会が仮想空間では、現実政治が生活から遊離するのは必然だ。参院選の結果は、「数」だけで判断するものではない。「与党敗北」を生んだ有権者の深い意識、そこにどれだけ到達できるのか、政治家もメディアも問われている。 (北村肇)