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「人を殺さない」ことが人間の本質であり、死刑は到底、認められない

 「死に神」に激怒した鳩山邦夫法相に問いたい。「何があっても動じない覚悟のもとに執行したのではないのか」と。治安のため死刑制度が欠かせないとの確固たる信念があるなら、どんなに揶揄されても堂々としていられるはずだ。私はむしろ、鳩山氏が、自らの苦悩の深さにより、激怒を引き起こしたと信じたい。

 すべての原点は「人を殺してはいけない」にある。そこに、ありきたりの理屈を持ち込むことはない。遡及性のない命を奪う権利は、だれ一人持ち合わせていない。それだけのことだ。当然、国家の名の下に殺人が合法化されることもありえない。戦争も死刑も、いかなる理由をつけようと、許されるものではないのだ。

 死刑廃止論への反発に「被害者やその遺族の人権を軽んじている」という声がある。「被害者より加害者の人権が大切なのか」という極論がなされることもある。なぜ二項対立的な発想になってしまうのか。命を絶対視するからこそ、死刑に反対せざるをえないのだ。殺人を犯した者の人権を、被害者やその遺族の人権の上位に置くことなど、あろうはずがない。なのに、死刑に反対することが、犯罪者の罪を問うこと自体、否定しているかのように受け止められるのはどういうことか。

 遺憾ながら、国家があおっているとしか思えない。ネット上で、たとえば「光市母子殺人事件」を担当した安田好弘弁護士を人非人扱いしたメールが飛び交う。「吊してしまえ」といった文言も後を絶たない。これらは閉塞した社会を象徴した現象でもある。だが、秋葉原事件の直後に宮崎勤死刑囚に死刑を執行するといった、国の「死刑推進」に向けたメッセージがなければ、これほどまでにネット世論がエスカレートすることも、ワイドショーがはねあがることもないはずだ。

 では、なぜ異様なまでに国は死刑にこだわるのか。「治安維持」が目的なのだろう。ただし、それは単純な「犯罪抑止」のためではない。国家に反旗を翻す者は極刑に処すことがありうるという「脅し」である。何のことはない、戦前の発想がそのまま生き残っているのだ。

 ただ、一方で、「犯人が同じ空気を吸うことに耐えられない」と訴える、被害者遺族の思いに声を失う。仇討ちの心情が自分の中に潜んでいることも隠しようがない。それでも「殺人はだめ」と繰り返し叫ぶしかないのだ。単なる倫理観ではない。「人を殺さない」、これこそが、人間を人間たらしめる本質なのである。  (北村肇)