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人を殺してはいけないことに理由などない。「だめだからだめ」なのだ

「なぜ人を殺してはいけないのか」が、難問のように取り上げられる。そのこと自体に違和感がある。「だめだからだめ」なのだ。ほかに言いようがない。「なぜ人はこの世に生まれ、生きているのか」。この問いにも正答はない。いかなる科学者でも哲学者でも、証拠をもって説明することなどできない。

 それでも私たちは生きている。そして「人を殺すのはよくない」と思っている。そこに理屈はないし必要もない。「だめだからだめ」なのだ。

 個人が私的理由で殺すのも、国家が大義名分に基づき、戦争という状況で”敵”を殺すのも、すべて同様。例外はない。死刑制度も当然、認められるものではない。

 死刑により再犯の防止を図ると言われる。だが、実際にそのような効果があったという客観的データを知らない。勉強不足にすぎないのかもしれないが、欧米で「死刑は過去のもの」になっている現実をみても、「効果」は疑わしい。

 それでも、日本では死刑許容の雰囲気が強まっている。なぜ、世界の流れに逆行するのか。高まる不安を抑えるため、「危険なものは駆除する」という風が吹いている気がする。

“理由なき殺人”が続いた。「人を殺してみたかった」と自供した若者がいたとされる。本当に「理由はないのか」、単に「殺してみたかった」が動機なのか、実は解明されていない。「得体の知れない犯罪者は駆逐しろ」。そんなムードだけが漂う。

 あわせて強まっているのが、「殺人鬼をかばう者も同罪」との風だ。光市母子殺人事件では、被告の弁護に立った安田好弘弁護士への異常なバッシングが続いた。本誌でも取り上げた通り、問題になった安田弁護士の「公判欠席」には、当該の弁護士としてしかるべき理由があり、なおかつ手続きもきちんと踏んでいる。一方で、「検察側も死刑判決は難しいと考えていた。世論が後押しした」との報道がされていた。司法が情緒に流されたとしたら、大いなる禍根を残したと言えるだろう。

 死刑反対論に対しては、「被害者の人権はどうなる」という疑問が返ってくる。だが死刑によって被害者の人権は回復するのだろうか。重要なのは、加害者に罪の重さを心の底から認識させることではないのか。正直、気分の中には「それはきれいごと」との思いが微妙にある。だがやはり、「だめだからだめ」なのだ。(北村肇)