編集長コラム「金曜日から」 編集長のコラムを公開しています。

指紋押捺

 今号「指紋押捺が日本社会に問うもの」で鼎談に出席いただいた金成日さんは、昨年5月10日号の「風速計」で崔善愛さんが紹介した人物だ。押捺拒否による罰金3万円に対して、抗議として「1万円」を支払わなかったと掲載したが、日韓併合の年号にちなんで「1910円(年)」の誤りだった。そこで今回、押捺についてあらためて聞く機会をもった次第。表紙の「指紋押捺強制具」が生々しい。

 記事のように、1985年は押捺の大量拒否があった。前年出版された『ひとさし指の自由 外国人登録法・指紋押捺拒否を闘う』(社会評論社)で、拒否について家族会議をしてから3年後の善愛さんと妹の善惠さんが裁判を前に語り合った箇所がある。

「法廷にピアノを持ち込んで、思っていることを表現してみたい。それだったらいくらでもやってやるわよ」(善愛)

「コタツの中でミカンをむくように、拒否が日常茶飯になればいいのにね」(善恵)

 軽やかな言葉とは裏腹に、背負わせてしまった事柄の重みを思う。(吉田亮子)

渋谷敦志さん

畑仕事をする笑顔の女性、真剣な表情の祭りの男性、強風で傾きながら崖に立つアテの木。能登半島地震から1年を機に出版された渋谷敦志さんの写真集『能登を、結ぶ。』のページをめくると、悲惨な写真ばかりではないのに感情が揺さぶられる。それは渋谷さんが見た「その地域の限界とは裏腹の、まだ力を出し切っていない可能性」(あとがき)を感じるからだろうか。

 渋谷さんは地震翌日の昨年1月2日、日本赤十字社の医療活動の取材で能登半島に入った。その後、峠で巨岩のすき間を自転車で突入していく人に出会う。「大好きな人たちがいるから」とその先に物資を届けようとしていた。その姿に心をつかまれ、取材を続けることができたという。

しかし、写真集を持って再訪したら「さまざまな問題が現実味を帯びてきていた。能登はこれからどうするかという段階にきている」。道路は通っているので、ぜひ現地を訪ねてほしいとも。渋谷さんの願いは、「一人でも多くの人と能登を結ぶ」ことだ。(吉田亮子)

障害者と災害

 1月9日放送のNHK「バリバラ」は、阪神・淡路大震災当時、障害者が全国の仲間の支援を受けながら、地域住民を巻き込み、救援活動を展開したことを取り上げた。

 脳性まひがある福永年久さん(当時42歳)が恐れたのは、地域から障害者の姿が消えること。特別な支援がないなか、介助を受けながら地域で暮らす障害者の自立生活は弱いものだった。そこで障害者に限定せずに炊き出しなどの復興活動を自ら行ない、地域に存在をアピールした。

 ただ、今は介助者がいれば、地域とは無関係に障害者の生活が成り立つ。危機感を覚えた「ゆめ風基金」では障害者が学校に出向き、子どもたちといっしょに避難訓練をする取り組みを行なう。インクルーシブ教育の必要性は言われているが、子どもが障害者と接する機会は乏しい。

「地域で障害者が当たり前に生活しないと、災害のときだけ助け合うのはムリ」「日常と非日常はつながっている」

 障害当事者の言葉は重い。露呈した課題は30年たっても解決していない。(吉田亮子)