編集長コラム「金曜日から」 編集長のコラムを公開しています。

「人間」も外交も、複雑であり、単純でもある

「人間」は単純だ。一人の例外なく、生まれて死ぬ。遺伝子に左右されることも、食べて、栄養を吸収し、不要物を排泄することも、万人に変わりがない。

 だが一方で、「人間」は複雑だ。何しろ、地球上に「同一人物」は存在しない。無限の「異なったもの」、それが「人間」でもある。一筋縄ではいかない。

 このことに気づいたとき、社会事象のとらえ方も変化した。ほぼ例外なく、ものごとは単純であり複雑だ。両面から見ないと、深層に近づくことはできない。

 北朝鮮問題は極めて複雑だ。6カ国協議に参加する各国の思惑は、幾重にもからみあい排斥し合い、しかも日々、変化している。実態を知ることは容易ではない。少ない情報をもとに、いくつもの関数を用いて分析するのは至難の業だ。

 しかも、情報そのものにバイアスがかかっている可能性もある。実際に核実験は行なわれたのか、成功したのか、失敗したのか。それらの根本的なことに関しても、北朝鮮の発表はもちろん、米国やロシアの公式見解も鵜呑みにはできない。

 北朝鮮の核実験声明に対し、中ロはすかさず不快感を表明した。だが「出来レース」との見方がないわけではない。米国と北朝鮮との関係でも、実は水面下では早期決着のレールが引かれているという説すら流れている。

 しかし、視点によっては単純でもある。

「何があっても戦争は避ける」
「そのためには対話が不可欠」
「日本市民、北朝鮮市民のくらしを守る」
「在日外国人を差別しない」――。

 難しく考える必要はない。重要なのは、国家を超える、市民の生命と人権だ。このことがすべてに優先するのである。
 
 外交交渉が複雑なのはわかる。まして相手は「将軍様を戴く独裁国家」。相当の努力が必要になる。それでも、根底にある単純な真実を忘れては意味がない。(北村肇)

『週刊金曜日』ルポ大賞受賞者の技量は似非プロを超えている

美術にはとんとうといが、ピカソがなぜ天才かは何となくわかる。感覚器官が通常人とは異なるのだ。目はもちろん「心眼」が、対象をあらゆる角度からとらえることができる。それらが一つの作品に昇華したとき、観る者を驚愕させる。「抽象画」とは、一般人では見ることの出来ない本質を具象化することではないのか。

 本誌では、今週号から『週刊金曜日』ルポ大賞受賞作品の掲載を始めた。今年で17回目。毎年、多くの応募作品があり、選考に頭を悩ます。

 そもそも、ルポライターとは何か。人によって定義は異なるだろうが、私は次のように考える。

「透徹した目と感性で、物事の本質に迫り、文字に移しかえる表現者」。

「物事の本質に迫る」には、現場に行き、当事者に会わなくてはならない。だから野次馬でなければだめだし、足腰が軽くなくては務まらない。何より「自分」がなくてはならない。そして他者を尊重し、愛す姿勢が求められる。

 時に、ルポルタージュは激しく他者を批判する。それはしかし、他者の立場を尊重していることにほかならない。むろん、「自分」の立ち位置がしっかりしているからこそ、批判的言説を展開できるのである。

 マスコミの「北朝鮮報道」は、多くが、政府には無批判のうえ、本質に迫っているとも見えない。一線の新聞記者や放送記者はルポライターといっていいだろう。「現場」は北朝鮮だけではない。永田町にも霞ヶ関にも「現場」はある。本質を探る手だてはさまざまに考えられるはずだ。

 なのに、なぜ「官製」の情報ばかりが流れてくるのか。むろん全員とは言わないが、大半の記者が自分の立ち位置、自分の思想、自分の言葉をもっていないからではないのか。いまプロの力を発揮せずに、いつ発揮するのか。

 もともと、鳥肌が立つようなルポには滅多にお目にかかれない。私自身、満足のいくルポは一度として書けていない。だが今回のルポ大賞受賞者はいずれも、日曜画家や名前ばかりの似非プロの域を超えている。(北村肇)

盛岡市で地域に根ざした平和運動を堪能した

影の背丈が伸びた。ある日そのことに気づき、時計の日付を目で追った。明確な季節の変わり目などあるはずもないのに、やはり今年も「秋」はふいにやってきた。温暖化のせいなのか、窒息しそうな社会がもたらすのか、いやに「夏」が長く感じられるが、それでも「秋」は忘れることなく、私のもとに訪れてくる。
 
 清澄な光と風はまた、元気も運んでくれる。

 半袖から長袖のシャツに取り替え、過日、盛岡市を訪れた。いわて生協主催の「いわてピースキャンパス オープンキャンパス」で講演をさせていただくためだ。壇上でびっくりした。このパワーはなんだろう。会場から、得も言われぬ力強い波が寄せてくる。
 
「これでは逆だなあ。話し手が波を伝えなくてはいけないのに」と思いつつ、憲法改悪やマスコミの堕落などについて90分ほど話した。2回の講演、約150人の聴衆はだれ一人舟を漕ぐこともなく、熱心に耳を傾けてくれた。
 
 30万人の盛岡市民で組合員が14万人と聞き、納得した。「平和」や「人権」を自分のこととして普段から考えている人々の力。それが組み合わさり、重なり合い、うねりになるのだろう。
 
 講演に先立ち、ピースキャンパスの活動報告が行なわれた。組合員のグループがそれぞれ「教本」をもとに学習会をしているという。メンバーはみんな、明るく、楽しげに成果を発表する。肩肘張らず、しかし「思い」は確実に伝わってくる。
 
 生協の直営店も見学した。近くに大型スーパーが次々と進出しているが、さしたる影響はないという。「運動に結びついているから」との説明に虚をつかれた。資本の論理が我が物顔に振る舞う昨今、いろいろな地域で、地道な運動が着実に成果をあげているのだ。中央の論理に染まり、負け戦に慣れきっていたのかもしれないと、我が身を恥じた。     

 安倍晋太郎首相も、その取り巻きも、ひとり一人の市民の暮らしなどそっちのけで、「愛国心」を唱える。教育基本法を変えれば市民の幸福度が上がるかのようなデマを、平気で流す。だが、地域に根ざした民主主義や平和主義は、そんなことでは揺るがない。
 
 わんこそばも冷麺も食べられなかったが、盛岡を堪能した一日だった。 (北村肇)

所信表明演説で見えた安倍新首相の「姿勢」と「実力」

想像通りというより、想像を超えるお粗末ぶりだった。安倍晋三首相の所信表明演説。およそ理念も力強さも感動もなかった。「若さ」や「官僚に引きずられない官邸」を打ち出しているわりには、内奥からほとばしり出るような言葉はなかったし、いかにもお役所作成の文言が大半を占めていた。
 
 前段でまず、首相として目指す「美しい国」の姿を4点にまとめた。これがあまりに抽象的な内容で、ピンとこない。

「文化、伝統、自然、歴史を大切にする国」「自由な社会を基本とし、規律を知る、凛とした国」「未来へ向かって成長するエネルギーを持ち続ける国」「世界に信頼され、尊敬され、愛される、リーダーシップのある国」
   
 憲法改正、教育基本法改正、集団的自衛権の容認――これらが、安倍氏としてはもっとも訴えたいことだったのではないか。それならば、とってつけたようなきれいごとの「美しい国」像など後回しにして、冒頭から激しく主張すべきだ。
 
 ところが、その後も、おそらくは各省庁から寄せ集めたのだろう、細かい政策の説明が続く。

「その地方独自のプロジェクトを自ら考え、前向きに取り組む自治体に対し、地方交付税の支援措置を新たに講ずる「頑張る地方応援プログラムを来年度からスタート」
「「おいしく安全な日本産品」の輸出を2013年度までに1兆円規模とする」……。

 結局、「安倍氏らしさ」は、20分を超える演説の最後のほうで少し出ただけであった。「闘う政治家」を自認するなら、自ら信じる歴史観や政策を堂々と表明したらどうか。むろん、私は安倍氏の考え方に与するものではないが、所信表明とはそういうものだろう。もし、もともとなかったり、野党と対決しそうな問題は控えめにするという姑息な手段だったとしたら論外だ。
 
 父晋太郎氏は永田町で「プリンスメロン」とあだ名されていた。当時の政治部記者の解説は「サラブレッドで人柄もいいが、政策などに甘いところがある」だった。晋三氏は背も高くスマートとの評判だ。だが、見てくれだけの「マスクメロン」で終わってしまうようでは、日本が危うくなる。(北村肇)