編集長コラム「金曜日から」 編集長のコラムを公開しています。

当たり前のおかしさを言い続ける

 集団的自衛権行使容認の閣議決定は明白に違憲である。
 そのため政府解釈を土台にする安保法案は違憲となる。 
 よって、安保法案には反対し、白紙撤回を求めることは道理である。
 当たり前のことを毎週繰り返し言い続ける行為は苦行であるが、現代日本で暮らす私の義務だと心得ている。とはいえ、さまざまな形で安保法案反対の声が広がっている現状には希望を感じ、ほっとする(但し「希望」「絶望」「堕落」については本号の森達也原稿に共感している)。いずれにせよ、おかしなことはおかしいと言い続け、路傍の道理からは学んでいきたい。
 分野は違えど原発にかんして当たり前のおかしさを40年間言い続けてきた人々が特集されている原子力資料情報室だ。論理的に考え、至った答えを発言する。独りになっても言い続ける。それが信じるという行動だろう。独善とは違う。先週、安保法制に反対する9143筆の創価学会員の署名を持って公明党本部に独り日参した天野達志さんも同じであろう。

抗議するのは当然である

「平和のための結集」決議を御存知だろうか。1950年11月の国連総会決議377号のことである。
 国際連盟も国際連合も戦争の反省から平和のためにつくられた組織だ。国連憲章では紛争解決のため集団安全保障を用意し、加盟国(原加盟国51カ国)の紛争を防ごうとした。しかし安保理常任理事国の拒否権行使が予想されたため、地域的自衛権とも言える集団的自衛権を盛り込んだ。そこで、日本でも集団的自衛権しかないという議論になる。
 その前にもう少し歴史から学びたい。集団安全保障が安保理によって発動できない場合に総会が勧告を出せるとしたもう一つの手段である前述の決議だ。これは米国が加盟国に多数派工作をして成立した。
 しかし国連加盟国が増えていくと(2011年で193カ国)、多数派工作は効かなくなる。米国は国連離れを進める。平和という美名を冠した仕組みをつくるが、役に立たなくなれば足蹴にする。憲法無視の無法国家から法を強要される矛盾に抗議するのは当然である。

平和運動の智恵を引き継ぐ

 8月30日のデモは小社でも個人的に参加した人が多いようだ。先週号の高田健さんの記事と30日の国会前の大規模抗議運動のシールズなどのスピーチを受け、強く印象に残ったことは、50年を超える平和運動へのリスペクトとそれを引き継ぐ意志がおそらく初めて明確に提示されたことだ。平和運動の智恵を引き継いでいく行為は合理的だと私は考えている。なぜか日本社会はロスジェネ、U30だと常に若い世代が上の世代に古いとダメ出しをして、新しい改革案が提示されてメディアや社会はそれを拡散し消費してきた。このような世代の類型は一つの概念にすぎず、現場から乖離していないだろうか。まさに足元の首都圏ほど高度成長を担った地方からの移住者が多く高齢化が深刻に進んでいるのだ。違いや差異を消費する姿勢に慣れ親しんでしまってはいるが、違いを強化することは正しく考えることにとってマイナスにも働く。自分はあなたと違うというよりも、自分はあなたと同じですという可能性と迷いを傍らに置きたい。