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兵器産業に携わる人たちに「想像力」はあるのか

戦艦を描くのが好きだった。戦車や零戦のプラモデルもたくさん作った。割り箸や洗濯ばさみ、輪ゴムを使い、「機関銃」ごっこもした。子どもでは、それも仕方ない。新聞記者になり、自衛隊の観閲式を取材した。轟音をあげ疾駆する戦車に震えた。隣にいた同僚は「近くで見ると、やはりかっこいい」と呟いた。


 
 彼はどちらかと言えば、権力への姿勢は厳しい記者だった。個人的な印象を、何気なく口に出しただけなのだろう。だが、この一言で、ジャーナリスト失格との烙印を押さざるをえない。

 そもそも、経験を積んだ大人は子どもとは違う。歩んできた道のりに応じて、想像力が高まる。戦車の向こうに、先人から聞いた戦争のおぞましさが見える、紛争地の地獄が立ちのぼる、戦場で殺した人間、殺された人間の魂が押し寄せてくる。だから、おこりのような震えが襲うのだ。
 
 まして、新聞記者だ。最も重要な仕事は「権力の監視・批判」であり、究極の任務は「戦争を起こさせない」ことである。「戦争」に関しては、必要以上に神経質であっていい。たとえ杞憂に終わろうが、ほんの少しでも煙を感じたら取材しなくてはならない。「焼き芋のおいしい匂い」だったとしても、構わない。このテーマを追うときに、無駄という言葉はないのだ。
 
 本誌は今週号から、「巨大兵器産業 三菱重工の正体」をスタートさせた。総額1兆円といわれるミサイル防衛システムの、かなりの部分を同社が手がける。だが、その実態は市民・国民に明らかにされていない。
 
 軍需産業は、常に闇の中で蠢いてきた。しかし、最近は様相が異なる。堂々と兵器展やシンポジウムなどが開かれるようになった。自民党の議員ばかりか、民主党議員、さらには米国の議員も参加する。もちろん、三菱重工をはじめとした日本の兵器産業は、主役然としたふるまいである。

 兵器産業の取材をするたびに、同じ疑問を抱き続けた。「製造したり販売したりする人には、どこまでの想像力があるのか」。いかなる理屈をつけようと、それは「人殺し」の道具だ。自分の手を血に染める事実からは逃げようがない。「犯罪」と異なるのは、とってつけた「大義名分」があることだけだ。 (北村肇)