編集長コラム「金曜日から」 編集長のコラムを公開しています。

「痛み」を我慢して受け入れるべきは、「弱者」ではなく「強者」だ

 公園のベンチを見るたびにむかむかする。何でわざわざ仕切り板をつけるのか。どうせ、ホームレスの人が寝られないようにするためだろう。いいではないか。住む場所がないのだ。だからベンチで横になる。そのどこが悪いのか。

 東京・池袋では、NGOらが行なっていた炊き出しが、「東京電力の変電所建設」を理由に締め出された。「別の場所を斡旋してほしい」という要求も豊島区は拒否した。本誌でも紹介したが、このような例は他の場所でもある。大抵、自治体は「近隣住民に反対もあるので」と弁解する。どこか社会がおかしい。歪んでいる。

 何度でも同じことを言おう。「小泉―竹中」構造改革路線が、それでなくともふらついていた日本社会を徹底的に歪めてしまった。小泉純一郎氏は「痛みの伴う改革」と叫び、多くの市民が「平等に痛みを分かち合うことは必要」と思ってしまった。違う。「痛み」を甘受すべきは、「強い者」に限られるのだ。

 大企業には高い税率を課す。そのことにより、株主配当は減るかもしれない、正規社員にしわ寄せがいくこともありうる。だが、大企業、その株主、正規社員は「強者」である。「弱者」を救うための「痛み」ならやむをえない。高額所得者から多額の税金をとるべきなのは言うまでもない。

 政権交代を実現した民主党の鳩山由起夫首相は、かねてから「友愛」を掲げている。素直に受け止めれば、社会的弱者の視点に目線を置くということなのだろう。米国ではなく沖縄側に、大企業ではなく派遣社員側に、教育委員会ではなく児童・生徒側に立つ。具体的にはそういうことだ。これらが実現して初めて、自民党の悪政よさらば!となる。

 ならば、直ちに、ベンチの仕切り板は外し、炊き出しは確保し、税制改革をし、公平再分配を基本にした政策を推進すべきだ。いま必要なのは、「強者」がノーブレス・オブリージュ(高貴な義務)に目覚めることである。権力を持つ者、権威を持つ者、資産を持つ者、こうした「強者」が自らの富や力を社会に放出することこそ「友愛」の精神である。
 
 そして、私たち市民ひとり一人に課せられているのは、「強者」に高貴たれと迫ることだけではない。そこに自分より社会的な弱者がいたら、相対的に自分が「強者」であることを意識し、少なくとも排除したり、排除に手を貸したりしないことだ。「小泉―竹中」の弱肉強食路線に巻き込まれてはいけない。(北村肇)