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「水」までが一部の「資本」に独占される、これぞ「世も末」か

 宇宙にも自分の中にも「井戸」がある。そのことに気づいたのは村上春樹氏の小説を読んだときか。ひょっとしたら、かなり以前からわかっていたのだけれど、村上氏によって意識上に持ち上げられたのかもしれない。というのは、かなり小さい頃から、何度もその「井戸」に落ちた経験があるからだ。

 いや、「落ちる」は正しい表現ではない。意志をもって「降りる」が正解だ。うーん、でも「落ちた」こともある。難しい。いずれにしても、一人きりで、ぽっかりと空いた頭上の空を眺め、変に安心感に浸ったのは確かだ。このバーチャルな感覚には、もう一つ、欠かせないものがある。「水」だ。

 涙と海の成分が似ているのは、人間が「水」から生まれてきた事実を示唆する。だがそんな科学的説明は不要なほど、命と「水」の親和性は、私という存在が知っている。だからこそ、別世界に行くには、「穴」のほか「水」が必要なのだ。

 その「水」を「資本」が独占しようとする。本誌今週号は「検証 グローバリゼーション」の第2弾として、実態を特集した。

 普段はなかなか気づかないが、日本は世界でも有数の「水に恵まれた国」といわれる。少し都心を離れれば、まだまだ美しい渓流はいくらでもある。梅雨や秋の長雨も律儀に訪れる。まずい水道水の影響で、ペットボトル入りミネラルウォーターが人気だが、水飢饉への不安感を抱く市民はあまりいないだろう。

 だが、世界に目をやれば、「水」はしだいに「手に入れにくい資源」になりつつあるのだ。砂漠地帯に限ったことではない。いわゆる「先進国」でも、ウォーターバロンと呼ばれる、水利権で商売する大資本が跋扈し、最近では投機筋も動いている。「水」が石油のように扱われ始めているのである。

「検証 グローバリゼーション」第1弾では、「日本が食糧を買えなくなる日」を特集した。このままいけば、小麦や大豆はいずれ「金持ちしか食べられない」ものと化すだろう。そして次は「水」なのだ。

 人が生きるために最低限、必要なものが一部の大企業に牛耳られる。世も末とは、こういうことか。久しぶりに「井戸」に降りてみたくなる。(北村肇)