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「靖国」から見える、無責任体制の果てに架空の「敵」をつくる組織というもの

 毎日新聞の社屋は皇居の真ん前に建っている。昭和天皇死去の際、皇居側に向いた窓のブラインドを下げるかどうか社内で論議になった。編集現場では、「そんなバカなことをすべきではない」という声が圧倒的だったのは言うまでもない。

 会社と労働組合との団交でもテーマになった。その場で、労務担当役員が珍妙な考えを披露した。「隣家で不幸があれば窓は閉めるでしょう」。反論するのもばかばかしかったが、私を含め、組合役員から怒号が飛んだのは言うまでもない。

 新聞社の経営陣は、ほとんど記者出身者だ。一線の仕事では優れたジャーナリストが、いつのまにかボンクラ経営者に成り下がることも多い。権力批判を日々の仕事にしていたはずが、権力保持に汲々とする。この手の人間にとって社長は「天皇」になってしまう。反論なんてとんでもない。何を命じられても、ひたすら「はいはい」。

 遺憾ながら、「内なる天皇制」は新聞社にもある。絶対権力者の指示には無条件に従うことで、その庇護のもとに身を置く。自分を消していれば、いつかは出世が見えてくる。このようなタイプが役員会を牛耳ると、当然のことながら無責任体制が蔓延する。あらゆる場面で、本質的な解決より、「上の顔色」をうかがうことになるからだ。

 困ったことに、権力におもねることで安住の地を見いだすと、本来の天皇制に対する批判力が衰える。「天皇なるもの」の存在を認めるわけだから、「天皇制批判」は自らに跳ね返ってこざるをえない。だから、本人がどこまで意識しているかはべつにして、事実上、天皇制擁護派と化すのである。

 組織にとって大きな問題が起きたとき、言わずもがなに社長は責任を取らない。方針を決めたのは社長だが、異を唱えなかった役員にこそ責任があるとなる。その役員は「指示通りに動かなかった社員が悪い」と言い募り、社員を代表する組合は社長を追及する。ここで社長が目を覚ませば、事態は好転するかもしれない。

 だが、往々にして最高責任者は逃げ続ける。困った取り巻きの役員連中は、「加害責任」を外部に押しつけようとする。「そうだ、悪いのはあいつらだ。社長も、われわれも、社員も被害者なのだ」。無責任体制の果てに、架空の「敵」をつくる。

 「靖国」のもつ一つの意味がそこにある。 (北村肇)