編集長コラム「金曜日から」 編集長のコラムを公開しています。

限界を突き抜けた辺見庸氏の鋭利な言説に、驚嘆し畏怖する

 出る杭は打たれるが、出過ぎた杭は打たれない。だから、長いものに巻かれずがんばったほうがいい。よく言われる言葉だ。だが、さらに出過ぎたときは抜かれてしまう。そこで、それを防ぐための戦略が欠かせない。打たれそうになったら出る、抜かれそうになったら引っ込む。といっても、これは私のごとき凡人のこと。打たれても抜かれても痛痒のない傑物も存在する。
 
 辺見庸氏もその一人だ。紡ぎだされた一つ一つの言葉から、容赦ない怒りが四方八方に飛び交う。相手は爛れきった政治家、糞バエに成り下がった新聞記者、浮いた言葉に酔う似非知識人。当然、周りを無数の敵に囲まれる。弾を受けた権力者は必死に「辺見庸」という杭を抜こうとする。だが抜いても抜いても消えることのない杭に、ついには恐怖感すら覚え、あきらめる。

「辺見氏倒れる」の報を昨年、聞いたとき、思わず「やはり」とつぶやいた。憤怒の塊はいくら外に投げつけようと、自らの内にも沈殿する。それでもなお突き進めば限界が来る。凡人は限界を知り、一旦ステージを降りるか、休息に入る。だが「辺見庸」はしゃにむにイラクに行き、全国各地で講演し、倒れた。

 本誌読者からたびたび問い合わせがある。「辺見さんの健康状態はどうなのでしょうか」「『週刊金曜日』に何か書いてもらえないのですか」。何度か、連絡を取ろうと思った。イラク、憲法改悪、靖国……語ってほしいこと書いてほしいことは数え切れないほどある。だがやめた。執筆の可能な状態にあるのは人づてに聞いたが、なんとはなしに、「時」は自然に訪れるという予感があった。 

 しかして、今週号より事実上の復帰第一作となる集中連載が始まった。インタビューに答える形の書き下ろしという、新しい表現方法は辺見氏の発案である。「いま、『永遠の不服従』とは何か――死、記憶、時間、恥辱、想像力の彼方へ」というタイトルも氏がつけた。

 辺見氏には無頼のイメージがある。生活ぶりに限ればそうかもしれない。だが、そんなのはとるに足らないことだ。生命の微妙で微細な震えを感じ取ることができる魂。その持ち主には、そうそうお目にかかれない。限界を突き抜けた傑物の言説はさらに鋭利となり、鈍感な輩どもにぎりぎりと迫る。驚嘆し、畏怖しつつ、ふと浮かんだ言葉遊び。「杭に悔いなし」。(北村肇)