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笑いの達人、和泉節子さんと、へらへらばかりの新知事の違い

「この人は心から笑ったことがないんだなあ」とか、「笑い方を知らないんだなあ」とか、そんな人物に出会うときがある。最近では、福田康夫首相が典型。笑おうとすると、口元が変に歪んでしまう。眼鏡の奥で目はぎらついたままだし、感じるのは皮肉っぽさだけ。一方、民主党の小沢一郎代表はどうか。こちらも似たり寄ったり。ごくまれに破顔一笑といった風情もあるが、どうにも垢抜けない笑顔だ。

 本誌連載中の「笑う門には」を読んで肯くことしきり。ガン細胞を退治し、血糖値も下げる。まさに「笑い」は万病のクスリなのだ。そのことを実感したのが、和泉節子さんとお会いしたときだ。本誌今週号で中山千夏さんと対談している、和泉元彌さんの母である。
 
 何しろ、間髪を入れずポンポンと言葉がとんで来る。それがまた一々面白い。笑いの達人(笑うことも、笑わせることも)の底知れぬパワーに圧倒されつつ、NK細胞が体中で活性化するのがわかった。まさに恐るべき笑いの効果なのだ。

 俗に「お行儀のいい」人からは、和泉さんは胡散臭い目でみられるのだろう。とりわけ、狂言のように古いしきたりが連綿と生き続ける世界で、「歯に衣を着せぬ」は嫌われる。だが、そんなことは気にもとめず、何が作法だ、何が格式だと笑い飛ばしているように見える。
 
 小さい頃、見よう見まねで三味線をいじったことがある。親戚にそこそこ有名な弾き手がいて、歌舞伎座にもよく出ていた。お稽古を見ていると、実に滑稽だった。みんながしゃっちょこばっている。小学生になったばかりで、当時は適切な言葉で表現できなかったが、「形式や儀式を重んじるばかりに、人間が本来もつ猥雑さを失った大人のアホさ加減」を何となく感じ、つい含み笑いしたものだ。
 
 少し大きくなって、私は確信した。「まじめ」とは、笑わないことではない。笑いたいときに笑い、泣きたいときに泣き、怒りたいときに怒るのが本当の「まじめ」であり、苦虫噛みつぶした顔をして「作法だ」「伝統だ」と口走る大人に善人はいない。以来、この定説が覆えることはなかった。

 和泉さんに話しを戻す。笑いの中で時折、守るべき道は守り通してますよとばかりに、目が厳しくなる。芸、そして子どもに対する教育に関しては一歩も譲らない、という決意なのか。ただヘラヘラしているだけの、どこぞの新知事とはここが違う。(北村肇)