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自分のことしか考えない大人が語る「いじめ問題」の空虚さ

「いじめ」は自己防御の一つ。新聞記者時代、「いじめ」の連載をする過程でそのことを強く感じ、どう受け止めたらいいのか、反芻し続けてきた。さして時間をかけずに辿り着いたことが一つだけある。

「自分が被害者にならないためには、被害者をつくる」。この構図がいじめ問題には潜んでいる、ということだ。そして、それはそもそも、大人社会のあちこちで散見できる。大人の背中を見ている子どもが陥っても、不思議ではない。

「自分勝手な子どもが増えた」「いじめを見て見ぬふりする子どもたち」……天に唾しながら、いくらしたり顔で大人が論評したところで、子どもの心に届くはずはない。「自分勝手」で「見て見ぬふり」をする術は、大人を真似して身につけたにほかならないのだから。

 隣人よりもいい暮らしをしたい。同期の出世頭になりたい。知人の子どもよりいい学校に入れたい。人に使われるより、人を使いたい。

 慎みも謙譲も他を思いやる心も、すべてかなぐり捨てて私利私欲に走る。こうした大人たちから何を子どもは学ぶのか。ただ一点、「自分さえよければいい」。

「自分がすべて」の典型は、一部の高級官僚や政治家、そしてエセマスコミ人だ。彼ら、彼女らの語る「いじめ問題」に説得力のあるはずがない。

 教育基本法の論議にしても、初めから、主人公の子どもたちは蚊帳の外に置いて、国会も役所も大人社会の思惑ばかりを優先してきた。
 
 本誌今週号では、森越康雄・日教組委員長、石元巌・全教委員長のインタビューを掲載した。両組合とも、当然、教育基本法改悪反対だが、未だに共闘できない。過去の経緯はある程度、知っているので、まったく理解できないわけではない。しかし、主人公はあくまでも子どもなのだ。

 反省すべきは、私たち大人である。みんな、本当はそのことに気づいている。でも、知らぬ半兵衛を決め込んできた。事態が抜き差しならなくなると、今度はこぞって「悪いのは自分ではない、あいつだ」と指を差し合う。またぞろ「いじめの構図」を展開する大人たち。自省と赤面なくしては何も始まらない。(北村肇)