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松岡前農水相の「命」を救えなかった安倍政権の末期

 幾度となく「自殺」の取材をしてきた。記憶から消えないのは、ある殺人事件にからみ、容疑者の兄が線路に飛び込んだ事例だ。連日、紙面を賑わす大騒動の中、どこの新聞社も、この兄の談話をとろうと躍起だった。だが、何度訪ねても、返事すらなかった。それが、あるとき、戸をたたくと、本人が出てきた。


 
 憔悴とした顔が忘れられない。思わず質問が出てこなかった。一緒にいた通信社の記者も無言だった。結局、「何も答えられない」程度の言葉を聞くだけで終わった。警察から「自殺」の一報が記者クラブに届いたのは、その翌日である。足がすくんだ。何かに救いを求めるような、宙を浮く彼の目が浮かんだ。

 概要をデスク(記事のまとめ役)に伝えると、「昨日、本人に会った様子を逐一、書いて記事にしろ」という指示が下った。確かに一種の特ダネではある。中身はないにしても、直接、肉声を聞いたのは私と通信社の記者だけだったからだ。私はためらった。書きたくなかった。デスクの電話は、「とにかく送れ!」の一言で切れた。

 新聞記者になって2、3年のころだ。日々の仕事に追われ、関係者取材は当然のこととして、何の疑問もなく行なっていた。当時の私にとって、取材対象はまさに「材」であり、「人」ではなかった。

 彼を助けることができたのだろうか。少なくとも「追い詰めた」側にいるのは事実だ――。奥歯を噛みしめて考える日々が続いた。いまも回答はない。一介の新聞記者が何を偉そうに、と自身を揶揄したこともある。そもそも「自殺」は、他人が入り込める話ではない。判で押したように、「原因は~とみられる」と報じられるが、原因が一つなどありえないし、真相は、本人以外、知るよしもない。
 
 それでも、松岡利勝前農水相の自殺に関しては、言っておかなくてはならないことがある。「安倍首相、あなたなら救えたはずだ」と。事件を知ったときは、正直、「メディアが追い詰めた」という雰囲気が高まるのではと危惧した。むろん、メディアにまったく非のないわけではない。だが、報道に責任を押しつけたのでは、本質がぼやけてしまう。そして、幸いなことに、世論は安倍政権批判へと向かった。
 
 集団的自衛権の容認、憲法改悪……「命」に重きを置かない安倍政権の体質を、市民はどうみているのか。各メディアの調査による支持率低下がその答えだ。(北村肇)