編集長コラム「金曜日から」 編集長のコラムを公開しています。

自称「愛国者」の勇ましい人たちは、弱者に強く強者に弱い

三島由紀夫は「愛国心」という言葉が嫌いだったと、「一水会」顧問、鈴木邦男さんの著作で知った。理由は、「官製でおしつけがましい」「日本を突き放して、それを愛するという姿勢が嫌い」「傲慢だ。己惚れであり、思い上がりだ」。鈴木さん自身、「どうしても言う必要がある時は、小声でそっと言ったらいい」と書いている。
 
 嫌いというより、私は「愛国」におぞましさを覚える。「お国のために身を捧げろ」と強制し、多くの市民の命を奪った、政治権力の道具としての「愛国」を寛恕できないのだ。このことを解決せずして、声高に「愛国」を叫ぶ議員や識者はまったく信用がおけない。

「自然や文化、伝統を大切にするのが愛国」とも言われる。だが、外から見た「国家」という面を考えなくてはならない。いかに自然が美しくても、国民性が優れていても、「侵略国家」日本に跋扈していた「愛国」を受け入れられないアジアの人々がいるのは当然である。

 安倍政権は一見、これまでの政府の歴史認識は踏襲しますとの姿勢で、静かな船出をした。だが、やはり爪を隠すことはできない。「核保有を議論すべき」「従軍慰安婦問題は歴史検証をすべき」……暴言が相次ぎ、与党幹部すら不快感を示すことが続いた。あげく、当の安倍首相が海外メディアに「九条は改正すべき」と明言。しかも、みんな、ふんぞりかえって「俺が正しい」といった態度だから唖然とする。

「核を撃ち込まれる前に、こちらも核を持たなければだめだ」――。何とも勇ましい。しかしガキ大将の域を出ない幼稚な言説だ。核兵器に限らず、軍事力強化はいたちごっこで、際限なく肥大することは歴史がいかんなく証明している。まして核の場合は、いったん゛暴発゛したら世界が破滅する。被爆国日本のとるべき道は「核廃絶を世界に訴える」ことしかない。

「それは理想的すぎる」との批判がある。しかし、先人の言うように「現実によって現実は批判できない。現実を批判するものは理想」なのだ。政治家から「理想」をとってしまったら、何が残るというのか。 

「勇ましい」は自称愛国者の共通項だ。今は死語の「男は度胸、女は愛嬌」なんて口にしそうな人々。弱い者には暴力をふるうが、強者にはひれ伏す。我先に敵前逃亡するタイプでもある。 (北村肇)