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無頓着に靖国参拝を続ける、外交を知らない小泉首相には、「犠牲者」の意味を突き詰めた形跡すらない

「犠牲者」という言葉を安易に使いすぎだと、しばしば自己批判する。とりわけ、「犠牲」の源を辿っていき、自分が「加害者」の一員だったことに気づいたときは、頭をかきむしりたくなる。

 香田証生さんがイラクで殺害された際、反射的に「犠牲者」と表現した。では「犯人」は誰なのか。実行犯、イラクに自衛隊を派兵した政府、そもそもイラクを侵略したブッシュ政権。それだけではない。小泉・自民党政権をつくった有権者、それを倒せない国民、むろん私。
 
「加害者」すら特定せぬまま「犠牲者」の冥福を祈るのは、一種の自己満足でしかない。まして、自らが加害者に荷担しているとすれば、逃避以外の何物でもない。
 
 靖国神社に祀られた日本人は、「犠牲者」であって「加害者」である。戦争を阻止できなかった責任は、当時のすべての国民にある。そのことは否定のしようがない。しかし、すべての「犠牲者」を同列に論じていいのかとなれば、話は別だ。A級戦犯と市井の民は決して同罪ではない。

 平然と靖国参拝をする政治家の中には、「戦争で亡くなった人に変わりはない」と主張する人々もいる。「被害者として変わりはない」ということなのだろう。「加害者」の視点が欠けているのは論外だが、権力者も一般市民も同じ地平に並べるのはあまりに乱暴である。権力者の罪ははるかに重い。

 ときの首相が、加害性にのたうちまわったうえで平和を希求するなら、まずもって祈りを捧げるのは、日本という「加害者」のもとに被害を蒙った他国の民であるはずだ。だが、無頓着に靖国参拝を続ける小泉首相には、「のたうちまわった」様子どころか、一度たりとも「犠牲者」の意味を突き詰めた形跡すらない。(北村肇)