きんようブログ 社員エッセイを掲載。あの記事の裏話も読めるかも!?

2012年の鍵となる言葉(2)「抑圧か解放か」(下)

<北村肇の「多角多面」(61)>
「地震、雷、火事、親父」が怖いものの代名詞だった時代は、どこまで遡るのだろう。1952年生まれの私が小学生のころは、すでにピンとこなかった。「親父」に叱られた記憶はまったくない。養父だったからか。でも、友人から聞かされる愚痴はもっぱら「うるさい母親」だった。「怖い親父」は当時、すでに絶滅危惧種になりかけていたのだ。

 戦前の父権主義は天皇制や軍国主義と不可分の関係があるとして、戦後は「ものわかりのいい父親像」が求められた。そのこと自体は間違っていない。たとえ親子でも、理不尽な叱責や体罰が許されていいはずはない。子どもは親の所有物でも奴隷でもない。基本はあくまでも「対等」である。もちろん、長幼の序を軽視する気はない。自分より体験の豊富な人を尊敬するのは当然だ。しかし、年上だから、親だからといって、目下の人格を無視した“押しつけ”はだめなのだ。

 2012年、鍵を握る人物の一人は橋下徹大阪市長だ。以前、この欄でも触れたが、橋下氏の人気は「既得権者をたたく」姿勢によるものだけではない。彼の持つ“父性”に秘密がある。「黙って俺についてこい」という雰囲気が票を集めるのだ。小泉純一郎元首相にもそうした面はあった。だが、実際の生活も含めて“父性”は希薄だった。むしろ、石原慎太郎東京都知事に似ている。信じられない暴言の数々がなぜか大問題化せずにきたのも、「お父さんの言うことだから仕方ない」という“赦し”があったからだろう。

 閉塞した社会で鬱屈した現代人が「父親についていけば安心」という感覚に憧れるのは理解できる。公務員たたきの橋下氏の姿に「いじめっ子をやっつけてくれるお父さん」という像を結んだとしても、単純な批判はできない。彼ら、彼女らもまた虐げられてきた“子どもたち”なのだ。だからこそ、いまの状況は極めて危険で不安である。

 抑圧者は、おうおうにして解放者の顔をして登場する。あなたを抑圧する敵を倒してあげよう。その声は力強く、甘いささやきでもある。実態は判然としないが何となく社会から抑圧されていると感じる人は、無条件に“父親”に従うことで解放されると信じる。むろん、それは幻想にすぎない。真の解放は「個の自立」から生まれる。そして、それを担保するためには「差別無き社会」「思想、良心の自由」が前提となる。橋下氏が救世主になることはありえない。

 野田政権の命運は尽きている。その後釜に「解放者の顔をした抑圧者」が座る事態を防ぐにはどうしたらいいのか。日本社会は正念場を迎えている。(2012/1/20)