きんようブログ 社員エッセイを掲載。あの記事の裏話も読めるかも!?

◆新聞業界に軽減税率を求める資格があるのか◆

<北村肇の「多角多面」(111)>
 消費税増税に合わせた軽減税率導入の議論が一段落した。一応、2015年10月に実施することで自民、公明は一致したようだ。そもそも、いま消費税を上げる必要性はないが、とりあえずそのことは脇に置いておく。今回、問題にしたいのは、新聞業界の対応だ。

 日本新聞協会は先頃、以下のような声明を出した。

「……欧州各国では、民主主義を支える公共財として一定の要件を備えた新聞、書籍、雑誌にゼロ税率や軽減税率を適用し、消費者が知識を得る負担を軽くしています。『知識には課税せず』『新聞には最低の税率を適用すべし』という認識は、欧米諸国でほぼ共通しています。……知識への課税強化は確実に「国のちから」(文化力)の低下をもたらし、わが国の国際競争力を衰退させる恐れがあります。……国民がより少ない負担で、全国どこでも多様な新聞を容易に購読できる環境を維持していくことは、民主主義と文化の健全な発展に不可欠です。新聞協会は新聞に軽減税率を適用するよう求めます。あわせて、国民に知識、教養を普及する役割を果たしている書籍、雑誌、電子媒体についても軽減税率を適用するのが望ましいと考えております」

 知識への課税強化は望ましくない。その通りだ。「国民がより少ない負担で、全国どこでも多様な新聞を容易に購読できる環境」も維持すべきと思う。ならばなぜ、消費税増税そのものに反対しなかったのか。ほとんどの全国紙が「増税なしでは財政破綻」の論調だった。それなら逆に、「新聞も消費税増税を受け入れる。ただし、内部努力で購読料は据え置く」という方向性が筋だろう。

 とってつけたように「書籍、雑誌、電子媒体についても軽減税率を適用するのが望ましい」と表明しているが、いかにも空々しい。自己批判を込めて言えば、若手の新聞記者時代は、私もどこかテレビや雑誌を下に見ていた。仮にメディアでは新聞だけが軽減税率の適用となった場合、「書籍、雑誌が対象を外れるなら新聞も拒否する」と啖呵を切ることはありえないだろう。

「知識への課税強化……」の前には「近年、いわゆる文字離れ、活字離れによってリテラシー(読み書き能力、教養や常識)の低下が問題となっています。……国の文化政策としても好ましいことではありません」という文言がある。唖然呆然。政府の言いなりに消費税増税を掲げ、一方で自分たちには軽減税率の適用を求める。そこにはっきりとみられるような、ジャーナリズム性の放棄が新聞離れにつながっているのだ。(2013/2/1)

本当に破れかぶれ解散なのか

<北村肇の「多角多面」番外編>
 四面楚歌、総スカンの野田佳彦首相が「うそつき」と言われるのが嫌な一心で破れかぶれ解散に打って出た――。前代未聞、国会の党首討論で解散日を明言した野田首相の本心について、そんな論評が目立つ。違うのではないか。狙いはもっと別のところにあるのではないか。

 米国では異様に野田首相の評価が高い。それはそうだろう。どんな反対にあっても沖縄にオスプレイを入れる、原発を再稼働する、集団的自衛権に前向き、TPP参加を目指す。何から何まで米国の要求をのんできた。米国のポチと揶揄された小泉純一郎元首相以上のべったりぶりだ。

 米国の受けがいいのは、イコール霞ヶ関官僚の評価が高いことにもつながる。外務省しかり、防衛省しかりだ。しかも、財務省の長年の夢であった消費税増税まで実現したのだから「野田様々」である。それなのに、なぜ民主党政権は追い込まれたのか。

 米国が小沢一郎、鳩山由紀夫両氏の基本方針、つまり東アジア共同体路線に強い危機感を抱いていたことは間違いない。中国との間合いを計りながら外交を進めている米国にとって、万が一にも中国、日本、韓国が手を握る事態があってはならないのだ。そうした芽を徹底的につぶすためには、「小沢復権」を阻止しなくてはならない。

 一方、霞ヶ関にとっても「小沢復権」は悪夢だ。政治主導を掲げながら志半ばに表舞台から引きずり下ろされた小沢氏。もしも、再度、権力を握ることになれば復讐の鬼と化すだろう。世論調査を見る限り、小沢新党の支持率は伸び悩んでいる。しかし、高裁で無罪判決が出たことをきっかけに、どんな手を打ってくるかわからない。第三極、あるいは第四極の核になることも考えられる。米国や官僚がそう考えたとしてもおかしくはない。

 では、完璧に小沢氏をつぶすにはどうしたらいいか。その答えが「早期解散」だった。さしもの剛腕政治家も、年内総選挙では手の打ちようがない。「国民の生活が第一」は複数議席の獲得さえ困難だろう。また、橋下徹氏率いる維新の会も準備不足は否めない。霞ヶ関は橋下氏に対しても官僚主導に抵抗するのではないかとの危機感をもっている。その意味で、年内選挙はまさに一石二鳥なのである。

 民主党内での解散反対の動きがこれ以上、高まる前に解散に打って出る。もし「小沢つぶし」が最大のミッションなら、これはむしろ考えぬかれた策だ。(2012/11/15)

「良識」ある民主党議員は党を出るべきだ

<北村肇の「多角多面」(82)>

 どんよりとした空気に息苦しい。梅雨入りのせいではない。あまりにも厚顔で、あまりにも愚鈍で、あまりにも人権感覚のない人間が放つ言葉が、大気を汚しているのだ。小泉純一郎氏のときも、安倍晋三氏のときも「最悪の時に最悪の首相」という表現をした。だが、野田佳彦首相はその二人をも超えている。考えたくはないが、もはや日本は引き返すことのできない奈落に入り込んでしまったのかもしれない。

 消費税増税は本来、自公政権時代の「マニフェスト」であり、民主党は「増税の前に行政改革」を訴えて政権の座についた。それがいつの間にか逆転していたこと自体、ありうべからざることだったのに、野田首相は増税に「政治生命を賭けて」しまった。この段階でその厚顔ぶりにあんぐりしていたら、法案の先行きが不透明になると、今度はもともとのマニフェストをかなぐり捨てて自公に寄り添うという、空前絶後の有権者無視に踏み切った。

 以前から気になっていたのだが、野田首相の目は絶えず泳いでいる。国会での答弁も記者会見でもそうだ。「自分」のない証拠である。財務省に何をどう吹き込まれたのかわからないが、「何が何でも増税」というミッションに踊らされているようにしか見えない。自らの政治信条、理念、理想、そしてそれらを市民に訴える「言葉」を持たない首相は愚鈍と呼ぶしかない。

 自公との“談合”が成立した翌日、間髪を入れずに大飯原発再稼働を宣言した。「国民を守るため」という、これを喜劇として何を喜劇と呼ぼうかという言辞を弄す首相の目は、相変わらず泳いでいた。財務省と二人三脚の財界にどう受け止めてもらえるかのみを考えていたのか、言葉とは裏腹に市民への愛情はおよそ感じ取れなかった。

 ここまできたら断言するしかない。民主党に政権をとらせるべきではなかった。生産性のない皮肉で口にするのも忸怩たる思いだが、民主党が野党ならここまで官僚や財界の思い通りにはならなかったはずだ。「官僚支配打破」の旗を掲げる限り、消費税増税には反対し続けるしかなかっただろう。福島原発事故に関しても、連合の顔色をうかがうことはあっても、自民党、官僚、電力会社の三位一体の癒着ぶりを追及したはずだ。そこに世論の力が加われば、自民党もおいそれと再稼働には踏み切れなかっただろう。

 この際、反増税、脱原発の議員は民主党を脱党し新党をつくるべきだ。そうすれば自民党も割れるかもしれない。このままでは、この国は窒息してしまう。(2012/6/22)

社会が根底から変わったのに「ドジョウの視覚」ではたまったものではない

<北村肇の「多角多面」(80)>
 東日本大震災と福島原発事故は社会を根底から変えた。これほど明白でしかも本質的なことに野田首相は思いをいたしていないようだ。安全確保の見通しが立たなくても、圧倒的多数の市民が反対しようと、経済優先主義を恥じることなく大飯原発再稼働に踏み切る。一方で、消費税増税には「政治生命を賭ける」と繰り返す。要するに、首相の頭の中には「本当に大事なこと」がすっぽりと抜け落ちているのだ。

 大震災が私たちに突きつけた一つは、自然の中で自然に手を加えながら生きていく以上、しっぺ返しは避けられないという冷厳な事実だ。そして、そのことが明らかにしたのは、人間の無力さではなく、ある種の運命である。運命はあきらめには直結しない。運命として受け入れるには長い時間がかかる。たとえば、身近な人の死は残された者に悔悟をもたらす。だから「お別れの儀式」という時間が欠かせない。しかし、今回の災害ではまだ多くの方の行方がわからず、「儀式」すらできない人々がたくさんいる。あえて説明するまでもなく、福島原発事故が救助や捜索の足を引っ張ったのだ。

 自然現象である地震と違い、福島原発事故は人間の構築したシステムの問題である。避けようと思えば避けられた。だが、政府も東京電力も意図的にそこを誤魔化している。一貫して、「避けようのなかった」想定外の地震により、「本来なら安全だった」システムが崩壊したという図式にはめこもうとしている。とんでもない。自然現象は基本的に「避けようのない」ことであり、だからこそ「避けられない」は「想定内」なのだ。裏を返せば、「真に安全な」という形容詞は、「避けようのない」ことが起きても崩壊しないシステムにしか用いるべきではない。
 
 そもそも、原発というシステムは人間のコントロールを超えた存在である。放射性廃棄物の処理ができないだけでも明らかだろう。「避けようのない」ことが起きなくても崩壊する、極めて危険性の高いシステムなのだ。しかし、「3.11」が私たちに伝えたものは、原発の危険性といったレベルにとどまらない。重要な点の一つは、自然との関係だ。つまり、「自然に生かされている」ことを前提にした「自然との共生」に目を向けること。一刻も早く、「人間社会の一部に自然がある」との誤解から脱却し、「自然の一部に人間社会がある」という原点に戻ること。そこで初めて、私たちは「運命」をどうとらえ、どう対処すべきか考えることができる。
 
 野田首相だけではなく、多くの国会議員には哲学や思考力が欠けるように見える。人類が岐路に立っているとき、ドジョウの視覚では困るのだ。(2012/6/8)

2012年の鍵となる言葉(4)「ねじれ」

<北村肇の「多角多面」(63)>

 いまさら悔やんでも仕方ないけどォォ――って、まるで演歌だが、一時(いっとき)でも騙された自分が情けないやら悔しいやら。こんな思いの人がたくさんいるはずだ。民主党政権が誕生したときは、「自民に非ず」の政党が国会の中心に立ったということで、多少なりとも心が躍った。しかし、その期待はしだいにどころか急速にしぼむ。通常国会が始まった1月24日、野田首相の施政方針を聞くにいたり、民主党と自民党との違いは「看板」だけという冷厳な事実はいよいよ隠しようもなく、ただただ悄然。2009年の「政変」は、野党勝利ではなく単なる与党内の派閥抗争だったと認めるしかない。

 永田町はもちろん、新聞・テレビも何かといえば「ねじれ」を持ち出す。だが、両党に違いがないのに、どこが「ねじれ」なのか。

(1) 消費税増税
(2)沖縄辺野古基地建設
(3)TPP推進
(4) 富裕層・大企業優先の税制
(5) 憲法9条改定
(6) 米国べったりの外交

 国の基本にかかわる上記の政策で、果たして民主党主流派と自民党主流派に対立はあるのか。実はまったくない。谷垣自民党総裁は支持者から「態度があやふや」と批判されているが当然だ。本来、野田政権がやろうとしていることには賛成なのに、「政局」を考慮して表面的に反対の旗を掲げていては、あやふやにしかなりようがない。

 そもそも、「ねじれ」が生じている場は民自の間ではなく、民主党の中であり自民党の中だ。消費税にしてもTPPにしても、党内はどちらもバラバラ。ここを解消しなければ、国会はどこまでいっても空転するだけだ。この際、一刻も早く衆議院は解散すべきである。ただしそれは政界再編を伴わなくては意味がない。「対米自立、富の公平な再分配、脱原発」対「対米従属、富裕層・大企業優遇、原発温存」の構図だ。

 言わずもがなだが、後者は霞ヶ関が推し進める政策そのものである。このままでは、騙しのテクニックには無類に長けている霞ヶ関官僚は、「ねじれ」を最大限に利用し続けるだろう。永田町が政局でもめている限り、民主党も自民党も官僚のシナリオに頼るしかないからだ。むろん、石原新党に“反官僚”は期待できない。(2012/2/3)

[この国のゆくえ35……影の薄くなった日本を輝かせるのは平和憲法だ]

<北村肇の「多角多面」(54)>

 かつて、「日本」といえば「フジヤマ、ゲイシャ」だった。高度成長期の代名詞は「エコノミックアニマル」。海外旅行ブームは「ノーキョー」を有名にした。80年代以降、「ソニー・トヨタ」は技術立国・日本を象徴した。それが、今世紀に入ってからは、せいぜいサブカルチャー分野の「アニメ」「オタク」くらいか。いい意味でも悪い意味でも、「日本」は影が薄い。

 極めつけは「総理大臣」の存在感のなさ。ころころ変わるせいだけではない。要は資質の問題だ。一国のリーダーは「どのような社会をつくるのか」について確固たる哲学をもたねばならない。だが、ついぞそんな首相にお目にかかったことはない。野田総理はまさに典型だ。国内では安全運転に徹し、海外では何かとアドバルーンを上げる。しかもそれは、世界に向けた国家レベルの基本方針ではない。「消費税増税」など国内の政策にすぎない。要するに、野田氏の狙いは「外圧利用」と「米国の顔色うかがい」であり、こんなハリボテ総理の国がパッシング(無視)されるのは当然だ。

 いわゆる三点セットの「消費税増税」「TPP(環太平洋経済連携協定)」「米軍沖縄基地」。このうち「増税」については、財務省に踊らされた結果との見立てがある。それは間違っていない。しかし、別の視点から捉える必要もある。「霞ヶ関官僚の目は常に米国に向いている」ということだ。つまり、官僚のシナリオは米国の為に書かれているのだから、すべての面において、官僚主導とは米国主導にほかならないのである。

 TPPの真の狙いは、米国型基準(スタンダード)を日本にも押しつけるということだ。同国の社会規範の一つに「自己責任」がある。「努力する者は救われる」というと聞こえはいいが、要は「弱肉強食」「優勝劣敗」である。果たして、これらは日本に適しているのか。私には到底、そうは思えない。

 ここまで日本が落ちぶれた最大の原因は、米国の腰巾着に成り下がったことにある。「日本固有の」とか「日本らしく」は、一歩、間違えれば歪んだナショナリズムに転化する。しかし、その反動で米国流にどっぷりとはまりこんだのでは意味がない。「自分を大切にする心が、他者を大切にする心を生む」という真理も忘れてはならない。

 日本が誇れるものに「平和憲法」がある。野田首相は世界に対し、堂々と胸をはり平和憲法の“輸出”を図るべきだ。「改憲」とか「原発輸出」とか「武器輸出三原則見直し」とか頓珍漢なことを言っていたのでは、存在感を増せるはずはない。(2011/11/18)