きんようブログ 社員エッセイを掲載。あの記事の裏話も読めるかも!?

2012年の鍵となる言葉(3)「引き下げデモクラシー」

<北村肇の「多角多面」(62)>
 本誌合併号(2011年12月23日、12年1月6日号)で、中島岳志編集委員は「大阪W選挙での大阪維新の会の勝利は、二つの社会的心性に依拠している」としたうえで、次のように分析している。

「一つ目は『リア充』批判。『リア充』とは『リアルな生活が充実している』ことを意味するインターネット用語で、ネット上の掲示板には、現実生活に不満を持つ人間による『リア充批判』が溢れかえっている。このリア充批判は、丸山眞男のいう『引き下げデモクラシー』と通じる。自分たちより恵まれた立場の人たちを引きずり下ろすことに溜飲を下げ、その実現に執着心を強めるあり方は、まさに橋下氏の提示する政策と合致する」

 雨宮処凛さんや湯浅誠さんが進めてきたプレカリアート運動は、「貧困・格差」は構造的な問題だと鋭く指摘した。新自由主義は必然的に「1%」が「99%」を支配する構造をつくる。だから、既成の労働組合を既得権者として批判するだけではだめで、政策を変えさせなくては根本的な解決にはならない。ここ数年、こうした主張はかなり広がった。だが一方で「引き下げデモクラシー」の傾向もますます顕著になっているのだ。

 なぜなのか。あえて言えば、“知的エリート”が放つ言葉に力がないということだ。丸山眞男の「『文明論之概略』を読む」(岩波新書 1986年)はいつ読んだのかさえ忘れてしまったが、彼の造語である「引き下げデモクラシー」には、向上心をもたない庶民への慨嘆が含まれていたような記憶がある。そこに「大衆の上に立った」姿勢を見て違和感があった。知的エリートの考える「向上」とは、つまるところ「知的向上」であろう。大衆はその努力をしていない、だから「真の敵」が見えないという解釈では、エリートにとっては虚無的な世界である「衆愚社会」に行き着くしかない。

 反省すべきは、大衆ではなくエリートの側ではないのか。民衆の「頭」ではなく「心」を揺さぶる言葉をもちえなかったことを自省すべきではないのか。かつて竹中労は、『資本論』より美空ひばりの歌が大衆を動かす現実を論理的かつ情緒的に描いた。しかし、彼の作品もまた、ひばりの歌ほどには大衆を動かすことはなかった。この皮肉をいかに乗り越えればいいのか。私も含め、少なくとも活字で意思表明する場をもつすべての人間は、大衆批判をした途端に、それこそが「引き下げデモクラシー」になってしまうことを認識すべきだ。知的エリートの心の奥底には、「何も考えずに生きていられる<ように見える>」大衆に対する嫉妬心がある。その歪んだ心性から脱却しない限り、大衆と手を携え「真の敵」を倒すことはできない。(2012/1/27)