きんようブログ 社員エッセイを掲載。あの記事の裏話も読めるかも!?

◆新しい社会、新しい国づくりの年になる2013年◆

<北村肇の「多角多面」(107)>
◆新しい社会、新しい国づくりの年になる2013年◆

 戦争を望む人間がいるだろうか。孤立死を望む人間がいるだろうか。放射性物質による汚染を望む人間がいるだろうか。仮にいたとしても、砂丘に落ちた一本のピン程度だろう。なのに、多数の有権者が、憲法9条廃止、増税路線、原発容認の政党を選択した。

 前回も述べたが、当たり前と思ってきた議会制民主主義や政党政治が崩壊しつつある。この冷厳な事実を受け入れるしかない。それが、今回の総選挙における、議席数とは別の「結果」である。そもそも選挙自体が違憲だった。最高裁は昨年3月、1票の格差は違憲状態と判断した。なのに、1年9カ月も放置した上で、野田佳彦前首相は解散に踏み切った。自民、公明も違憲状態お構いなしに解散を迫った。三権の一角である立法府が司法権を踏みにじったのである。民主主義の否定といってもいい暴挙だ。

 一方、政党政治もまた陽炎のごとき姿をさらしている。民主党大敗の理由の一つは、「烏合の衆が集まった」ことへの批判だ。個別の政策について意見が割れるのは当然である。しかし、たとえば「コンクリートから人へ」という政権獲得時の大方針に反旗を翻す議員が、それも野田氏を筆頭に幹部議員から大量に出たのでは、これを政党とは言わない。

 自民党も同様である。いまや多くの有権者が疑問とも思わなくなっているようだが、公明党との連立は本来、ありえない。片や国防軍をつくろうと党首が叫ぶ党、片や「平和」を根底に据えた党。水と油の政党が手を結べるのは、政党の目的が「政権奪取」にしかないことを露骨に示している。

 かような「哲学」なき政治に対し、私たちはなす術がないのだろうか。そんなことはない。今回の投票率は史上最低の59.32%。棄権者は約4200万人に達する。私は、この大半は積極的棄権とみている。無関心ゆえの消極的棄権ではない。熟考の上、あまりのことに投票先を決められなかった、考えれば考えるほど、どの政党、どの候補者に託していいかわからなかった。この「考え」「悩んだ」末の棄権票はこの先、どこに向かうのか。

 わずか20%の支持しかない自民党が政権をとった。ひずみは遠からず露呈するはずだ。そして、その時は「考え」「悩んだ」有権者が立ち上がる。福島原発事故以降、全国で生まれたデモや集会。そこに参加した、あるいはエールを送った彼ら/彼女らがじっくりと熟成した思いが実を結ぶのだ。この国を救うのは、覚醒し、自分の足で大地を踏みしめる自立した市民。つまり私たちひとりひとりの意志と情熱である。2013年を新しい社会、新しい国づくりの年にしなくてはならない。(2012/12/21)

なぜ原発を題材にした劇映画が『希望の国』だけなのか

<北村肇の「多角多面」(102)>
 黒澤明監督の『影武者』だったか、無数の馬が戦(いくさ)で傷つき、川の中に次々と倒れていく場面が延々と続いた。冗長なラストシーンだという批判が飛び交い、そのことが話題になった。私のような素人目からも首をひねる終わり方だった。だが、何年か後、唐突にその場面を思い出し、黒澤氏の意図が読み取れた(気がした)。戦国時代に限らず、人類は繰り返し繰り返し、戦に手を染めてきた。この愚かな、あまりにも愚かな戦乱の歴史に対する怒りが、あのラストに込められていたのだろう。

 話題の映画『希望の国』には三つのエンディングが用意されている。原発事故で強制退去を迫られた酪農夫婦の心中、生まれてくる子どものために避難した若夫婦を襲う再びの被曝、そして結婚を決めた恋人同士が、津波で破壊された街を「一歩、一歩」と歩くシーン。最後の場面にわずかな希望を見る観客はいるかもしれない。しかし、私には、とりわけ残酷で救いようのない未来を象徴するように感じ取れた。「一歩、一歩」と進む先には、人っ子一人いない瓦礫が延々と続き、そこには絶望しか存在しない――。

 本誌10月19日号のインタビューで「日本の劇映画で、作品世界に原発を取り入れようという動きはあまりなかったですね」と聞かれた園子温監督は次のように答えた。
 
 今回も取材で一番多い質問が「なぜ原発の映画を撮ったのか?」なんですよ。海外では、そんな質問出ないですよ。こないだカナダ・トロントの映画祭で会見やったときもそんな質問一つも出なかった。なぜ撮ったか?なんておかしいでしょ。そりゃ、目の前で原発爆発したんだからさ、撮らないほうが変でしょ。まるで僕の頭おかしいみたいに言われて。聞くなら「なぜ(他の人たちは)撮らないのか?」でしょ。
 
 その通りだ。原発事故の本質を抉る芸術作品が出てこないのは、「昭和天皇タブー」にどこかで通じる気がする。あれだけの事故が起きてなお、原発は触れてはいけない存在なのだ。かくして、戦争責任問題がついにあいまいな霧に覆われたまま終わったように、福島原発事故の責任問題はあってなかったものになる。園監督の「絶望」の大本はそこにあるのではないか。

『週刊金曜日』は「あらゆるタブーを排する」ことを礎に誕生した。タブーは報道を歪め、ジャーナリズムを堕落させ、結果として読者を裏切ることになるからだ。一方、芸術におけるタブーは、自由な創造性を喪わせ、文化的に貧しい社会を生む。傍若無人の石原慎太郎さん、余生は原発タブーに斬り込む小説を書いてはいかが。(2012/11/16)

冗談のような「安倍総裁誕生」は、冗談のようだから怖い

<北村肇の「多角多面」(96)>
 少し時間を遡るが、「安倍晋三自民党総裁誕生」翌日の新聞社説。大手紙はそろいもそろって、何か奥歯に物がはさまったように歯切れが悪かった。

『朝日新聞』は一応、安倍氏のタカ派ぶりにクギを刺した。「ナショナリズムにアクセルを踏み込むような主張は、一部の保守層に根強い考え方だ。だが、総選挙後にもし安倍政権ができて、これらを実行に移すとなればどうなるか。大きな不安を禁じ得ない」。だが、全体としては、批判しているのか期待しているのか曖昧模糊としていた。

 一方、『読売新聞』は、安倍氏が憲法改正や「河野談話」見直しに前向きなことについて「いずれも妥当な考え方である。実現に向けて、具体的な道筋を示してもらいたい」と賛意を示し、同氏が原発推進論者であることを踏まえ「安全な原発は活用し、電力を安定供給できるエネルギー政策について党内で議論を深め、責任ある対策を打ち出すべきである」と求めた。しかし「待望の安倍総裁」というトーンはまったく感じられない。もともと石原伸晃氏へのラブコールが目立っていた同紙としては、「安倍勝利」は意外な結果だったのかもしれない。

『毎日新聞』の社説見出しは「『古い自民』に引き返すな」。1面の政治部長による解説の見出しは「民主より『まし』なのか」。これだけ見ると批判的な感じがあるのだが、記事そのものはどちらも一般論に終始していて、はっきりしなかった。福島原発事故以降、権力批判の記事が増えた『東京新聞』だけは、1面の見出しからして「民も自も『タカ派』」だったし、社説では安倍新総裁の危うさを指摘していた。

 全国紙の大半が煮え切らない論調だった一つの理由は、「安倍総裁」が想定外だったことにある。立候補時も「えっ、まさか」という感じだったし、複数の政治部記者から「一度、総理の椅子を投げ出した安倍氏が勝つはずはない」と聞かされていた。それが、あれよあれよという間に本命となり、総裁選後半には「安倍で間違いない」という情報が次々と飛び込んできた。

 橋下徹氏の場合も、いちタレント首長がいつの間にか「首相に最も近い男」になっていた。軽い冗談のつもりが冗談でなくなる――このような「流れ」が怖いのだ。不条理劇や小説によくあるパターンで、足下から底なし沼に引きづり込まれるような恐怖感がある。こういうときこそ曖昧模糊な態度をとってはだめだ。憲法の息を止めようとする連中を徹底的に批判し、表舞台から降ろさなくてはならない。(2012/10/5)

社会が根底から変わったのに「ドジョウの視覚」ではたまったものではない

<北村肇の「多角多面」(80)>
 東日本大震災と福島原発事故は社会を根底から変えた。これほど明白でしかも本質的なことに野田首相は思いをいたしていないようだ。安全確保の見通しが立たなくても、圧倒的多数の市民が反対しようと、経済優先主義を恥じることなく大飯原発再稼働に踏み切る。一方で、消費税増税には「政治生命を賭ける」と繰り返す。要するに、首相の頭の中には「本当に大事なこと」がすっぽりと抜け落ちているのだ。

 大震災が私たちに突きつけた一つは、自然の中で自然に手を加えながら生きていく以上、しっぺ返しは避けられないという冷厳な事実だ。そして、そのことが明らかにしたのは、人間の無力さではなく、ある種の運命である。運命はあきらめには直結しない。運命として受け入れるには長い時間がかかる。たとえば、身近な人の死は残された者に悔悟をもたらす。だから「お別れの儀式」という時間が欠かせない。しかし、今回の災害ではまだ多くの方の行方がわからず、「儀式」すらできない人々がたくさんいる。あえて説明するまでもなく、福島原発事故が救助や捜索の足を引っ張ったのだ。

 自然現象である地震と違い、福島原発事故は人間の構築したシステムの問題である。避けようと思えば避けられた。だが、政府も東京電力も意図的にそこを誤魔化している。一貫して、「避けようのなかった」想定外の地震により、「本来なら安全だった」システムが崩壊したという図式にはめこもうとしている。とんでもない。自然現象は基本的に「避けようのない」ことであり、だからこそ「避けられない」は「想定内」なのだ。裏を返せば、「真に安全な」という形容詞は、「避けようのない」ことが起きても崩壊しないシステムにしか用いるべきではない。
 
 そもそも、原発というシステムは人間のコントロールを超えた存在である。放射性廃棄物の処理ができないだけでも明らかだろう。「避けようのない」ことが起きなくても崩壊する、極めて危険性の高いシステムなのだ。しかし、「3.11」が私たちに伝えたものは、原発の危険性といったレベルにとどまらない。重要な点の一つは、自然との関係だ。つまり、「自然に生かされている」ことを前提にした「自然との共生」に目を向けること。一刻も早く、「人間社会の一部に自然がある」との誤解から脱却し、「自然の一部に人間社会がある」という原点に戻ること。そこで初めて、私たちは「運命」をどうとらえ、どう対処すべきか考えることができる。
 
 野田首相だけではなく、多くの国会議員には哲学や思考力が欠けるように見える。人類が岐路に立っているとき、ドジョウの視覚では困るのだ。(2012/6/8)

この国のゆくえ40……2012年は「抗議の年」「行動の年」に

<北村肇の「多角多面」(59)>
 色づいた銀杏のグラデーションが楽しい。突き抜けた青に空が染まる。ニットの服を着たダックスフンドが尻尾を振る。そうか、冬なのだ。道行く人の息がせわしい。車があたふたと走り抜ける。そうか、師走なのだ。

 気がついたら1年が終わっていた。「3.11」以降、これまでとは異なる時間が社会を覆ったかのようだ。私の時空間もどこか歪んだ気がする。単純に猛スピードで進んだわけではない。かといって牛の歩みということでもない。早かったり遅かったり、ときには停止したり。ぐるっと一回転したり。このメリーゴーランドはしかし、何の喜びも楽しみも与えてはくれない。私には。おそらく社会全体にも。

 東日本大震災はまだ終わっていない。終わることはない。行方不明の方がまだ約3500人もいるのだ。探し求めている家族らはその何倍にもなる。時が解決するなどと、言えるはずもない。傷跡が癒えるには、想像を超える時間がかかるだろう。

 福島原発事故もまた、収束の見通しはまったく立っていない。放射線の内部被曝による被害が顕在化するのは2、3年後だ。一体、どのくらいの人が健康を損なうのか、見当もつかない。精神的なダメージを負った人は無数と言っていいだろう。

 こうした状況下で、政府のお気楽な発表を聞くたびに寒気がする。まるで直線的に解決へ向かっているようなことを平然とのたまう。ありえない。どんなに楽天的に見積もってもジグザグした道であり、最悪の場合は避けようのない危機的状況だって考えられる。

 2011年末、この国の為政者はこう宣言するだろう。「今年はいろいろと大変なことがありました。でも新しい年には輝かしい未来が待っています」。決してだまされまい。ここまで棄民政策を続けてきた政府を、だれが信じるというのか。

 しかし、あきらめは何も生まない。世界は根底から変わりつつある。「1%」に対する「99%」の怒りは地球のあちらこちらで火を噴いている。「革命」は、突然、生じたわけではない。何年、いや何十年にわたって、平和や愛を求めた名も無き人々が戦い、その「思い」が種としてこぼれ落ちた。それがいま、芽を出しているのだ。私たちはじっと目をこらし、先人の「思い」を見つけ、掬い取らなければならない。そして、花を咲かさなければならない。タイム誌の選んだ「今年の人」は「抗議する者」だった。2012年は、「抗議の年」「行動の年」にしたい。(2011/12/20)

[この国のゆくえ22……「苦悩」とともに2011年の夏を過ごす]

<北村肇の「多角多面」(41)>
 あっという間であり、異様に長い5ヵ月でもあった。「3.11」は時間感覚をも狂わせたようだ。

 振り返ってみると、そこには無数の「?」が、まだ化石にならない状態で浮遊している。それはそうだ。何一つ解決していないのだから。「収束」しないのは福島原発事故だけではない。私の想念もまた、何の見通しも不時着する場所もなく、いたずらにさまよい続けている。

 原発が人類にとって負の存在であるとの結論はとうに下していた。一旦、事故が起きたら、破滅の事態をもたらすことも明確に予言できた。政府や電力会社を中心にした“原子力ムラ”の醜悪さも自明の理だった。なのに、私といえば、無数の被害者が生まれた現実を呆然として見つめるばかりだ。

 私にとって「結論」とは何だったのか。それを自分なりに出すことで何が解決したのか。いままた、どんな結論を出そうとしているのか。その煩悶の中で混沌としているというのが、偽らざる心境だ。具体的な言葉にすればこうなる。「3.11」で犠牲になった人々の「死」、残された人々の「生」に対し、一体、どうやって向かいあえばいいのか、まったく見えてこない――。

 原発を廃炉に追い込み、二度と同じような被害者を出さない。そのことが、大震災で亡くなられた方々への手向けにつながり、死者を悼むことすら奪われた人々の支援に結びつく。さらには、明日を背負う子どもたちの未来をつくりだす。ここまでは無条件、反射的に紡ぎ出すことができる。しかし、何かが足りない。

 現時点での私の「結論」は、矛盾に満ちている。それは「結論を無理して出すことはない」ということである。肝心なのは「思い悩むこと」ではないのか――。

 今年もまた「8・6」、「8・9」がやってくる。戦争、核兵器、原発……考えるべきことは山積している。例年と違うのは、「3.11」によって、社会を覆っていたフタが吹き飛んだことだ。否応なく「死」が露出し、すべての人の眼前にさらされたのである。逃げてはいけない。しかし、簡単に結論を出そうと焦るべきではない。まずは悩みたい。「生きている」からこそ、苦悩する。苦悩するからこそ、明日がある。この夏を苦悩とともに送ろう。出来る限り、背筋をピンと伸ばして。(2011/8/5)