きんようブログ 社員エッセイを掲載。あの記事の裏話も読めるかも!?

被災者の方々に「涙」や「笑顔」を強要してはいないか

<北村肇の「多角多面」(87)>

 震災で心が凍って、いまそれが溶け始めているから、涙がどんどん流れてくる。

 ドキュメンタリー映画「石巻市立湊小学校避難所」(藤川佳三監督)の中で、村上愛子さんが語った言葉だ。69歳。立つこともできない状態で避難所にかつぎこまれ、奇跡的に一命をとりとめる。
 
 村上さんから藤川監督にあてた手紙の一節(原文ママ)。

 時々 心臓が錆びて チクチクするぐらい 朝の目覚めは生きていたいと思い 仮設の住人の方々をまるごと家族と勝手に思い 小学三年生の双子の兄弟 二才の女の子に愛チャンと呼ばれ 今度オセロをお知えて貰います。

 根っからの明るい性格からか、村上さんの周囲には笑いが絶えず、だれからも「愛ちゃん、愛ちゃん」と慕われる。彼女の登場するシーンだけではなく、そもそも2時間のドキュメントにほとんど「涙」はない。画面を覆うのは「笑顔」ばかりだ。冒頭の言葉も「どんなつらいことがあっても、人間はやさしいし強い。だからいつかは幸せになれる」というメッセージに聞こえる。

 だが、そこでとどまっては二級のドキュメンタリーだ。あらかじめレールを敷いておいて、それにふさわしい題材を探し当てはめたような作品は評価に値しない。この映画が描くのは、被災者の方々の「笑顔」は着ぐるみであるという事実だ。たとえて言えば、子どもたちを喜ばせるキャラクターの「笑顔」。一旦、着ぐるみを脱いだら、そこには別の顔がある。

 九死に一生を得て、しかも仮設住宅の抽選にあたった村上さんは、石巻市立湊小学校避難所から“新居”に移る。真新しい部屋に入るなりうずくまって泣いた。凍り付いた心がようやく、ほんの少し、本当にほんの少しだけ溶けたのだ。真の笑顔は涙の向こうにしか存在しない。自然に涙が流れる心の状態でなければ、笑いは浮かんでこない。村上さんが笑顔を取り戻すには、まだまだ涙が足りないはずだ。

 福島県の学校でプールが解禁、海では漁が再開――笑顔にあふれた“明るい”ニュースが流される。被災にあうことのなかった私たちは、被災者に対し、最初は「涙」をいまは「笑顔」を強要しているのではないか。そう考え震撼する。(2012/7/27)

平熱の高い時代がやってきた

<北村肇の「多角多面」(86)>
 そこは、異次元の世界だった。

 7月16日。東京・代々木公園。

 東日本大震災、福島原発崩壊から約1年4カ月。「3.11」を<現実>から<過去の歴史>に追いやろうとする勢力への怒りが、地の底から沸き上がった。17万人。代々木公園では定番の旗や幟も翻るが、思い思いのプラカードのほうが圧倒的に多い。バギーを押した家族連れも目立つ。何度となく参加したメーデーとは似ても似つかない。

 気温33度の炎暑。それをも超える体温の熱さに包み込まれる。むりやりたきつけた熱さではない。市民の平熱が上がったのだ。どこか懐かしい、この感じ。

 60年代から大文字で語られてきた「革命」は70年代半ばには小文字になり、いつしかわずかな痕跡を残すだけになった。だが、「3.11」をきっかけに全国で生まれた新しい動きこそ「革命」にほかならない。既存の組織や団体にはよらず、個人がアメーバのように自由気ままな形でくっつく。かつて竹中労は「弱いから群れるのではない。群れるから弱くなるのだ」と喝破した。しかし、いまの動きは決して弱々しい「群れ」ではない。自立した個人のしなやかで強靱な集合体だ。

 街から大学から路上から、デモが退場していったのは70年代半ばだったか。「政治の時代」は終焉し、ヘルメットを投げ捨てた学生はそれぞれの道に無言で進んだ。2年後輩(72年大学入学)の男性に投げつけられた言葉がいまも反響する。「ペンペン草も生えない荒れ地に僕らは投げ出されたんですよ」。

「政治の時代」は「経済の時代」へと転換した。エコノミックアニマル、小市民、生活保守主義といった言葉が生まれた。カネがすべての時代は受験競争を激化させ、「身の回り1メートルのことにしか関心のない」人々を大量生産した。さらには、米国型新自由主義にじわじわと汚染され、あわせて管理型国家が構築されていった。21世紀の日本は文字通り、閉塞感漂う社会になったのだ。

「7.16」はそんな次元をぽんと飛び越えた。その先に何があるのか。カビの生えた戦略論で考えることはやめたい。アメーバには未知の力がある。社会は変わる。きっと。必ず。(2012/7/20)

小沢新党騒ぎのカラクリ

<北村肇の「多角多面」(85)

 小沢新党が立ち上がった。前途は不透明だが、新党をめぐる一連の騒ぎを振り返ると、あきれることが多々あった。中でも唖然としたのが、一旦、離党届を出した議員がぎりぎりの段階でひっくり返った、その理由だ。支持者から「政局ではないだろう」と叱られたという。この議員にとって、野田内閣への反旗は「政局」でしかなかったのだろう。一体、何を考え、何を目的に議員活動をしているのか。

 小沢一郎氏の腹の中は見えない。“壊し屋”の異名通り、民主党を割ることが最大の目的であったのなら、彼自身、政局にしか関心がなかったことになる。だが、民主党内で起きた反乱は、小沢氏一人が引き起こしたわけではない。もはや小沢氏にそこまでの力はない。マニフェストをなきものにし官僚のつくったシナリオ通りに自民党や財界と手を組んだ野田首相。そのあまりの裏切り行為に対して怒りをぶちまけた議員が多数いたのだ。つまり、「消費増税反対」「大飯原発再稼働反対」は政策の問題であり、決して政局ありきの動きではなかった。

 そもそも、客観的にみれば、民主党を壊したのは小沢氏ではなく、野田首相とその周辺の議員だ。2009年に政権をとったときの魂を売り渡し、「自由・民主党」に成り下がった。その犯人は民自公の大連立に走った連中なのである。

 こうした実態にもかかわらず「政局にかまけている暇はない」と寝言を言う議員は有権者をばかにしている。ここまで本来の政策をかなぐり捨て、「コンクリートから人へ」どころか「生命より経済」路線へと暴走した野田内閣に異を唱えることのどこが政局か。何度でも言う。これは政策の問題なのだ。

 小沢新党騒ぎのカラクリは、「反野田内閣」=「小沢派」という構図が意図的につくられたことにある。この二項対立が大連立への道を舗装してしまったのだ。一部マスコミを巻き込んだ、霞ヶ関官僚のあざとい戦略の勝利である。政策の問題なのだから、離党と小沢新党への加入は必ずしも一致しない。無党派での活動を選択するのはむしろ自然だ。ところが、小沢対反小沢派の構図がつくられたことで、離党はしたいが小沢氏とは一線を画すと考える議員の何人かが民主党に残った。かくして新党の勢いはそがれた。

「小沢一郎」という存在を利用することで大連立が成立し、財務省の悲願である消費増税が実現した。小沢氏の「力」をうまく演出しながら、一方で同氏の剛腕が過去のものであることを浮き彫りにしたのだ。恐るべき財務官僚の悪知恵。(2012/7/13)

「櫂未知子の金曜俳句」7月末締切の投句募集について

『週刊金曜日』2012年8月31日号掲載の俳句を募集しています。
【兼題】「サンドレス」「水飯(すいはん)」(雑詠は募集しません)
【締切】 2012年7月31日(火)必着
【投句数】1人計10句まで何句でも可
※特選に選ばれた句の作者には櫂未知子さんの著書(共著を含む)をお贈りします
【投句方法】官製はがきか電子メール
(氏名、俳号、電話番号を明記)

【投句先】

郵送は〒101-0051 東京都千代田区神田神保町2-23
アセンド神保町3階  『週刊金曜日』金曜俳句係宛。

電子メールはhenshubu@kinyobi.co.jp
(タイトルに「金曜俳句投句」を明記してください)

【その他】新仮名づかいでも旧仮名づかいでも結構ですが、一句のなかで混在させないでください。
なお、添削して掲載する場合があります。

兼題「水貝(みずがい)」 金曜俳句への投句一覧(7月27日号掲載=6月末締切)

「櫂未知子の金曜俳句」投句一覧です

選句結果と選評は『週刊金曜日』7月27日号に掲載します。

どうぞ、選句をお楽しみ下さり、櫂さんの選と比べてみてください。

『週刊金曜日』の購入方法はこちらです

amazonhttp://www.amazon.co.jp/)でも購入できるようになりました。

予約もできます。「週刊金曜日」で検索してください。配送料は無料です。

(さらに…)

兼題「キャンプ」 金曜俳句への投句一覧(7月27日号掲載=6月末締切)

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どうぞ、選句をお楽しみ下さり、櫂さんの選と比べてみてください。

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「3.11」後の新しい社会は市民の手でつくる

<北村肇の「多角多面」(84)>
 ふと気がつく。この夏はあまり蚊がいない。そういえば、去年もそうだった。カラスの数が減ったのも気になる。いまさら石原都知事の一掃作戦の効果でもあるまい。すべては杞憂かもしれない。さすがに、何でもかんでも福島原発事故に結びつけるのはどんなものかと思う。でも、一個の生命体として、私の直感が働く。放射性物質がひっそりとこの国を覆い、侵し続けている。それは間違いのないことだと。

 東京都の水元公園でホットスポットが見つかった。共産党の調査で明らかになった。おそらく、こうした危険箇所は都内だけでも数限りなくあるだろう。放射性物質は「水に流す」ことはできない。樹木の密集するところでは、雨の降るたびに蓄積し、消失することはないのだ。

 ここしばらく、米国の海岸に東日本大震災由来の瓦礫が次々に流れ着いている。ニュースを聞くたびに背筋がぞっとする。わかっていたこととはいえ、福島原発事故が世界を巻き込んだ事実に驚愕する。海洋汚染の深刻さが浮き彫りになるのは、むしろこれからだろう。

 安易に「復興」という言葉を使ってしまう。だが、2011年3月11日以前に戻ることはありえない。戻ることがあってもいけない。原発のある世界に回帰したのでは、再び「福島」の起きる可能性を除去できない。新しい社会をつくりあげるしかないのだ。

 戦争責任について考えてみる。この国では、アジア・太平洋戦争の責任がうやむやにされたばかりか、責任はないという暴論すらまかり通る。そのことが、日本に対するアジアの視線を厳しくしたのは疑いようもない。ひいては「国益」(真の「国益」とは「民益」である)をも損ねた。いままたその二の舞を演じようとしている。

 世界中に放射性物質を振りまいたのだ。明らかに国家の犯罪である。だが、政府は責任をとろうとしない。むしろ「なかった」ことにしようともくろむ。責任をうやむやとしたまま、新しい時代をつくることはできない。彼らは、「政・官・財・学」が癒着した原子力ムラの構図を「復興」したいだけだ。

 官邸前の金曜日デモは10万人規模になった。大飯原発再稼働反対のうねりは各地に広がった。東京電力幹部らの刑事告訴は、全国で支援体制ができつつある。市民の動きは確実に「新しい社会」につながる。私の直感は囁く。「勝てる」と。(2012/7/6)

橋下徹大阪市長の怖さは「真空」にある

<北村肇の「多角多面」(83)>
橋下徹大阪市長の怖さは「真空」にある

 橋下徹大阪市長に対する評価に「いい加減」がある。確かに言動をみていると、一貫性に欠け、筋の通った柱もない。実は、橋下氏の怖さはそこにある。

 橋下氏は時に、小泉純一郎氏と同列に論じられる。一見、怖い者知らずの「歯切れの良さ」が重なるからだろう。ただし、それは「開き直り方」のうまさでしかない。小泉氏の有名な言葉「人生いろいろ、会社もいろいろ」はその典型だった。窮地に追い込まれると、わけのわからないことを堂々と宣言することで煙に巻く。この点では、まさに天才的だった。一方の橋下氏も「脱原発」の大見得を切ったかと思うと、急転、「市民のために大飯原発再稼働はやむなし」と掌を返す。見事なまでの変身ぶりだ。

 彼らはなぜ、かくもいい加減になれるのか。しかも、そのことが政治生命の死につながらないのか。理由は、二人とも「真空」だからだ。何もない、だからどんな色にも染まる、大衆の空気を読みいくらでも路線を変えられる。この可塑性の強い「いい加減さ」こそ、強さの源なのだ。

 言うまでもなく、真に強い人間は「筋」を曲げない。だが、社会が歪んでくると、それが徒になることがある。強い人間の足を引っ張ることで自分を強く見せる。そうした思惑のある人間が大挙して「筋」を崩しにかかる。いい加減な人間なら、たまらず「筋」をぐにゃりとさせて凌ぐかもしれない。しかし、自分の考えをしっかりと持った人は、何としても耐えようとする。その結果、残念ながら、ポキリと折れてしまうことがある。

 一貫性も柱もなく、どんなことでも吸い込んでしまう「真空」人間は、何があろうと折れることはない。だから、ある意味で強いのだ。こうしたいびつな強靱さの危険は、毒を飲み込んだときに、恥も外聞も良心もなくまき散らすことにある。

 仮に新自由主義の亡者たちが橋下氏の中に入り込んだらどうなるか。彼らの声を「歯切れ良く」代弁する。力強く、堂々と、自信満々に。一片の良心でもあれば、どこか後ろめたさが出るものだが、「真空」人間にはそれがない。だから、閉塞状況にあえぐ社会では聴く者の多くが知らぬ間に洗脳されてしまうのだ。

 橋下氏は社会の鏡である。意図的に「敵」をつくっては叩く。そんな手法を用いる彼がカリスマになる背後には社会の歪みがある。このことを踏まえたうえで、さまざまな角度から、橋下氏を徹底批判していかなければならない。(2012/6/29)