きんようブログ 社員エッセイを掲載。あの記事の裏話も読めるかも!?

「子どもへの虐待」の背景には、現実と仮想の逆転があるのではないか

<北村肇の「多角多面」(97)>
 一時、「ゲーム脳」が話題になった。科学的な裏付けに乏しく、いまはほとんど死語のようだが、一方で、電車内でスマホのゲームに興じる人は増えるばかり。しかも、若者だけではなく中年でもちらほら見かける。私のように、相も変わらず単行本か雑誌を読んでいるのは間違いなく少数派だ。

 個人的には、電子機器によるゲームが人間の脳を激しく毀損するとは思わない。インベーダーゲームが爆発的なブームになったのは1970年代半ばから後半。私の周辺でも中毒者が山のようにいた。それから40年近く。身の回りに「インベーダー症候群」らしき人はいない。もちろん、「それによって勉強がおろそかになった」といった例は除く。

 むしろ、精神面への影響で不安なのは、インターネットによる仮想空間そのものだ。現実(リアル)と仮想(バーチャル)の境目がわからなくなる危機感に関しては、多くの言説がある。私的体験で言えば、新聞記者時代、自殺取材の過程で、子どもたちの中に「リセット発想」のあることに愕然とした。「一度死んで、また生まれ変わればいい」――。ただ、正直、さほどの深刻さをもっては受け止めなかった。大人が何とかする、何とかできると考えていたからだ。しかし、それはあまりに楽観的すぎたのかもしれない。

 最近、子どもに対する虐待事件が絶えない。報道に接するたびに、リアルな世界を見失っていたのは、実は大人の方ではなかったのかと考えてしまう。子どもは親にとって文字通りの分身であり、現実そのものだ。その子どもを虐待し命すら奪ってしまうのは、人間存在自体をバーチャルな空間でとらえているからではないのか。つまり<実感>は仮想空間においてのみ存在する。だから、現実空間での非人間的な行為に<実感>は欠落している。むろん、虐待問題をとらえるとき、社会保障の不備や新自由主義のもたらす格差・貧困問題を捨象するわけにはいかない。しかし、そこにとどまらない気がするのだ

 秋葉原事件の加藤智大被告は、ネット上でのなりすましに対する怒りが犯行動機だったとされる。彼にとって、現実で人を殺害することはある意味でバーチャルであり、ネット空間のなりすましに対する警告こそがリアルだったのだ。

 われわれが体感できる現実はそう多くはない。一方、インターネット空間は無限である。この無限の空間では、あらゆる情報を入手できるだけでなく、自分でない自分として情報を発信できる。そこでは、現実と仮想の関係は混在ではなく逆転に進もうとしているのではないか。それから先の世界を私にはまだ想像ができない。(2012/10/12)

橋下徹大阪市長の怖さは「真空」にある

<北村肇の「多角多面」(83)>
橋下徹大阪市長の怖さは「真空」にある

 橋下徹大阪市長に対する評価に「いい加減」がある。確かに言動をみていると、一貫性に欠け、筋の通った柱もない。実は、橋下氏の怖さはそこにある。

 橋下氏は時に、小泉純一郎氏と同列に論じられる。一見、怖い者知らずの「歯切れの良さ」が重なるからだろう。ただし、それは「開き直り方」のうまさでしかない。小泉氏の有名な言葉「人生いろいろ、会社もいろいろ」はその典型だった。窮地に追い込まれると、わけのわからないことを堂々と宣言することで煙に巻く。この点では、まさに天才的だった。一方の橋下氏も「脱原発」の大見得を切ったかと思うと、急転、「市民のために大飯原発再稼働はやむなし」と掌を返す。見事なまでの変身ぶりだ。

 彼らはなぜ、かくもいい加減になれるのか。しかも、そのことが政治生命の死につながらないのか。理由は、二人とも「真空」だからだ。何もない、だからどんな色にも染まる、大衆の空気を読みいくらでも路線を変えられる。この可塑性の強い「いい加減さ」こそ、強さの源なのだ。

 言うまでもなく、真に強い人間は「筋」を曲げない。だが、社会が歪んでくると、それが徒になることがある。強い人間の足を引っ張ることで自分を強く見せる。そうした思惑のある人間が大挙して「筋」を崩しにかかる。いい加減な人間なら、たまらず「筋」をぐにゃりとさせて凌ぐかもしれない。しかし、自分の考えをしっかりと持った人は、何としても耐えようとする。その結果、残念ながら、ポキリと折れてしまうことがある。

 一貫性も柱もなく、どんなことでも吸い込んでしまう「真空」人間は、何があろうと折れることはない。だから、ある意味で強いのだ。こうしたいびつな強靱さの危険は、毒を飲み込んだときに、恥も外聞も良心もなくまき散らすことにある。

 仮に新自由主義の亡者たちが橋下氏の中に入り込んだらどうなるか。彼らの声を「歯切れ良く」代弁する。力強く、堂々と、自信満々に。一片の良心でもあれば、どこか後ろめたさが出るものだが、「真空」人間にはそれがない。だから、閉塞状況にあえぐ社会では聴く者の多くが知らぬ間に洗脳されてしまうのだ。

 橋下氏は社会の鏡である。意図的に「敵」をつくっては叩く。そんな手法を用いる彼がカリスマになる背後には社会の歪みがある。このことを踏まえたうえで、さまざまな角度から、橋下氏を徹底批判していかなければならない。(2012/6/29)

2012年の鍵となる言葉(3)「引き下げデモクラシー」

<北村肇の「多角多面」(62)>
 本誌合併号(2011年12月23日、12年1月6日号)で、中島岳志編集委員は「大阪W選挙での大阪維新の会の勝利は、二つの社会的心性に依拠している」としたうえで、次のように分析している。

「一つ目は『リア充』批判。『リア充』とは『リアルな生活が充実している』ことを意味するインターネット用語で、ネット上の掲示板には、現実生活に不満を持つ人間による『リア充批判』が溢れかえっている。このリア充批判は、丸山眞男のいう『引き下げデモクラシー』と通じる。自分たちより恵まれた立場の人たちを引きずり下ろすことに溜飲を下げ、その実現に執着心を強めるあり方は、まさに橋下氏の提示する政策と合致する」

 雨宮処凛さんや湯浅誠さんが進めてきたプレカリアート運動は、「貧困・格差」は構造的な問題だと鋭く指摘した。新自由主義は必然的に「1%」が「99%」を支配する構造をつくる。だから、既成の労働組合を既得権者として批判するだけではだめで、政策を変えさせなくては根本的な解決にはならない。ここ数年、こうした主張はかなり広がった。だが一方で「引き下げデモクラシー」の傾向もますます顕著になっているのだ。

 なぜなのか。あえて言えば、“知的エリート”が放つ言葉に力がないということだ。丸山眞男の「『文明論之概略』を読む」(岩波新書 1986年)はいつ読んだのかさえ忘れてしまったが、彼の造語である「引き下げデモクラシー」には、向上心をもたない庶民への慨嘆が含まれていたような記憶がある。そこに「大衆の上に立った」姿勢を見て違和感があった。知的エリートの考える「向上」とは、つまるところ「知的向上」であろう。大衆はその努力をしていない、だから「真の敵」が見えないという解釈では、エリートにとっては虚無的な世界である「衆愚社会」に行き着くしかない。

 反省すべきは、大衆ではなくエリートの側ではないのか。民衆の「頭」ではなく「心」を揺さぶる言葉をもちえなかったことを自省すべきではないのか。かつて竹中労は、『資本論』より美空ひばりの歌が大衆を動かす現実を論理的かつ情緒的に描いた。しかし、彼の作品もまた、ひばりの歌ほどには大衆を動かすことはなかった。この皮肉をいかに乗り越えればいいのか。私も含め、少なくとも活字で意思表明する場をもつすべての人間は、大衆批判をした途端に、それこそが「引き下げデモクラシー」になってしまうことを認識すべきだ。知的エリートの心の奥底には、「何も考えずに生きていられる<ように見える>」大衆に対する嫉妬心がある。その歪んだ心性から脱却しない限り、大衆と手を携え「真の敵」を倒すことはできない。(2012/1/27)

2012年の鍵となる言葉(1)「抑圧か解放か」(上)

<北村肇の「多角多面」(60)>

 ひっそり、人知れずという感じだった。2011年の去り方も、2012年の到来も。街中に、新年の華やいだ雰囲気はない。そうした傾向は、ここ数年ずっとあったが、今年は特に顕著だ。繁華街のイルミネーションなどは、かえって痛々しくさえみえる。

 無理をするのはやめよう。浮かれた気分にならないのなら、表面的に取り繕う必要はない。そもそも、12月31日と1月1日は単に一日進んだだけで、その間に大胆な変化が起こるわけではない。多くの人が何日間かの休暇を楽しんだ、その程度の話しだ。だがしかし、「新年」には利用できる面もある。一度、立ち止まって、現状を分析し将来を展望する機会にはもってこいである。

 そこで、自分なりに2012年の「鍵となる言葉」を考えてみた。まずは「抑圧か解放か」だ。すでに、「アラブの春」はいくつかの国で独裁者からの解放を勝ち取った。だが、一方で、シリアでは依然として市民の虐殺が続いているし、中国政府の言論抑圧姿勢にも変化は見られない。インターネットを駆使した、新しい市民革命がどこまで広がるのか、逆に「国家」の管理体制が強まるのか。その推移によって世界は大きく変わる。

 さらに重要なのは、金融資本、「カネ」からの解放だ。金融資本の暴虐こそが新自由主義の本性なのは明らかであり、リーマンショックや欧州の経済危機は、もはや国家には彼らを制御することができないという実態を露呈した。市場にすべてを委ねた結果、金融資本という怪物は、国家の管理を寄せ付けない存在になったのだ。この怪物をどう退治するのか、そのことが人類そのものに問われていると言っても過言ではない。

 そして、この背景には、現代人がカネの抑圧から逃れられないという現実がある。私自身、カネから解放されていない。解放できる自信もない。社会全体の構造がカネによってつくられている中で、“仙人”になるのは並大抵のことではない。

 だが、政治により抑圧を減らすことはできる。有効な方策は、平準化だ。大企業や富裕層から税金を取り立て、貧困層に回す政策の実行である。いろいろと議論はあるが、ベーシックインカムの導入もいまこそ検討すべきだ。どんな状況に陥っても、餓死することなく、雨露を防ぐ生活のできる社会ができあがれば、抑圧感はかなり軽減されるだろう。

 私たちひとり一人の心と覚悟の問題もある。幸せはカネでは買えないと、もう一度、しっかり認識したい。精神の解放はそこから始まるはずだ。(2012/1/13)

この国のゆくえ39……「やさしさ」を取り戻したい

<北村肇の「多角多面」(58)>
 もし生まれ変われるのなら、どんな人間になりたい? そう聞かれたら、迷わず答える。もっともっと、やさしい人間になりたいと。

 人はもろい。肉体だけではない。心はガラスの城のように、ほんの少しの衝撃でこなごなに崩れ落ちる。だから、柔らかく包み込まなくてはならない。私はあなたの、あなたは私の。そして私は私の、あなたはあなたの。心を。

「生きづらい」。この言葉を今年は何度、使っただろう。これほどたくさんの人々が生きづらいと感じる時代が、かつてあったのか。原因や理由についてさまざまに考えてきた。新自由主義がもたらした「経済格差」「弱肉強食」に関しては、しつこいくらいに触れてきた。新しい「奴隷制社会」であることも強調してきた。要は、カネがすべてになってしまったのだと。

 そんな社会で失われたものはたくさんある。「やさしさ」もそうだ。非正規の労働者には名前がない。取り替え可能な使い捨てだからだ。ここまでないがしろにされた人の心が壊れないわけがない。生活保護受給者が206万人を超えた。「貧富の差」による被害者なのに、時として怠け者呼ばわりされる。そこには、やさしさのかけらもない。人間の尊厳を足蹴にする官僚の冷酷さは、もはや当たり前でもある。

 東日本大震災は、棄民政策を浮き彫りにした。粉ミルクからセシウムが発見されても「健康に影響はない」と繰り返す政府。原材料に問題があったわけではない。埼玉県春日部市の工場で製造した際、空気中のセシウムが混入したとみられる。3月半ばの段階では、関東地方でも相当な量の放射性物質が飛び交っていた証拠だ。「直ちには影響がない」という政府の言葉を信じ、子どもたちを外で遊ばせたり、雨に濡らした親もいるだろう。国に少しでもやさしさがあれば、そんな悲劇は防げたはずだ。

 都心の駅や繁華街で肩が触れあうと、「すみません」の前にすごんだ目つきが飛んでくる。みんな何かにイライラしている。やさしさの欠けた社会では、やさしさの気持ちを持つことは難しい。そして、それを一人ひとりの責任に帰すことはできない。

 人は必ず死を迎える。しかし、社会は生き続ける。生まれ変わることもできる。それが人類の歴史でもある。未来の世代にやさしさを残したい。そのために何ができるのか、1年を振り返るいま、考えたい。深く、深く。(2011/12/16)