<北村肇の「多角多面」(19)>
美空ひばりの「港町十三番地」が十八番だった。小学生のころの話だ。「大きくなったらひばりちゃんと結婚する」と宣言していたらしい。記憶には残っていないが、母親が“証言”していたのだから、そうなのだろう。
青春期は、ご多分に漏れずビートルズにかぶれたり、グループサウンズやらフォークやらにはまった。美空ひばりへの関心もすっかり薄れたころ、カラオケ時代が到来。すると、すぐさま持ち歌は演歌に先祖返り。下町で生まれ、育ち、三味線と端唄・小唄の中で暮らしてきたのだから、DNAが「洋楽」を拒否するのは当然と言えば当然か。
そして、それなりに“大人”になったある日、美空ひばりの凄みに気づいた。歌の一節、一節がじわじわと細胞にからみついてくるのだ。うまいとか声がきれいとかいうのとは次元が違う。最近、ユーチューブで、改めてひばりのステージを追ってみた。「外れ」が一つもないのは当然だが、同じ曲でも色合いがそのつど異なり、しかも「説得力」のあることに驚嘆した。聴く者と正面から立ち向かっているからだろう。舞台なら目の前の観客に、テレビならカメラの向こうの視聴者に、自分の存在そのものを投げかけている。
哲学者の佐々木中氏が1月26日『朝日新聞』朝刊で「今、国民を心から納得させる政治家がいない。なぜか」として、こう語っていた。
「簡単です。演説が、文章が、ヘタだからです。演説する術を古代ギリシャではレトリーケと言いました。……堂々たる雄弁によって精密に根拠を示し、民衆の納得と同意を獲得する技芸(アート)。われわれが失っているのは、この真の意味でのレトリーケなのです」
国会論議の空疎さはますますひどく、目に余る。言い訳と自己防御に終始する民主党、過去の失政は棚に上げ、ひたすら挙げ足取りに走る自民党。こんな政党同士がやりあっても、そこには内奥から発する言葉はなく、当然、精密な根拠も説得力もなく、およそ真剣勝負とは縁遠い。
人真似くらいしか能がない歌手は、見てくれや宣伝力で一度は人気が出ても、すぐに廃れる。逆立ちしても美空ひばりにはなれない。ころころと首相が代わるのも、本物の政治家がいなくなったからだ。思想も哲学も言葉もない政治家が、市民の心をつかめるはずはない。菅首相の十八番は「ギザギザハートの子守唄」という。それもいいが、ひばりの歌を練習してはどうか。いや、いまさら無駄なアドバイスはやめよう。(2011/2/23)